引き続き引用。
「江戸時代に入ると、永続する平和と文教の向上発展に伴って、蒐集家の数は大いに増加し、一寸思い出すだけでも、徳川家康・僧天海・桂宮智仁・智忠父子・脇坂八雲軒・松平忠房・前田綱紀(松雲公)・徳川光圀から、 ~中略~ 就中、質量を兼ねて、最も重きをなすものは、松雲公と屋代と梅堂とであろうかと愚考します。但し後の二者の蒐集は既に散逸又は亡滅し、信頼に値する目録さえ残存して居りません。幸いにして、最大最優と想像される松雲公の集は、今日完全に近く保存されて居り、目録も印行されてありますから、江戸時代の代表として、ここにはこれを採る事にしましょう」
この時代から反町によって挙げられているのは、学問好きだった家康をはじめとして、天海僧正・桂宮智仁・智忠・脇坂安元(八雲軒)・松平忠房・前田綱紀・徳川光圀の八人。
いまだ江戸の盛期には至らないので、かりにコレクターを官系と民系に分けるなら、やはり前者の色合いが強く、その点では前代までの傾向を引き継いでいます。しかしその最後の時代といえるかもしれません。
家康、天海、桂宮父子、脇坂の五人が、安土桃山期から江戸初頭にかけての人物なのに対し、忠房、前田、光圀は江戸前期から中期にかけての人物なので、一応時代を二つに分けて記述することにしました。 以下、反町茂雄の文章で挙げられていた蔵書家を■で、ブログ側が追加した蔵書家を□で表していきます。
〔Ⅰ 安土桃山~江戸初頭 〕
■ 徳川家康 Tokugawa Ieyasu 1543–1616
■ 天海僧正 Tenkai 1536–1643
■ 桂宮智仁 Katsura-no-miyaToshihito 1579–1629
■ 桂宮智忠 Katsura-no-miyaToshitada 1620-1662
■ 脇坂安元 Wakisaka Yasumoto 1584-1654
例によって、まず量からみてゆくことにします
徳川家康には2つの文庫があり、前半の江戸城内の「富士見亭文庫」は三代家光の時に紅葉山へ移され、これは幕府蔵書「紅葉山文庫」として幕末まで続いてゆきます。一方、隠居先の駿府で作った「駿河御文庫」は新村出の推定によると和漢の書が一千部1万冊ほどでした。家康の死後は尾張、紀伊、水戸の御三家へ行き、余りは江戸に送られました。遺言にみえる比率は5・5・3です。御三家当主は家康晩年の膝下でその薫陶を受けて育ち、歿時にはそれぞれ十七歳、十五歳、十四歳でした。やはり新村の推定では、学問好きであった義直の尾張家に一番良いものが行き、紀州・水戸には二流以下のものが行ったといいます。分譲を担当したのは羅山です。そもそも家康の蔵書はごく晩年に形成された様で、蒐集にもその権力が存分に行使されました。東照宮御実録付録には、公家の古記録・図書を書写して三部写本を作り、朝廷、富士見亭、駿河に保管させたとあります。これは崇伝が選りすぐりの五山の僧たちに筆写させました。また、家康の蒐集の中で最も高い価値を持つ善本はいずれも金沢文庫本です。これは秀次によって持ち去られた2文庫を返却させた際に抜いたという説と、秀次死後に五山や公家へ分散した金沢文庫本を、金地院崇伝がモーションをかけて家康に献上させたという説があってよく分かりません。
その側近であった天海は叡山に1万1400ほど残っています。比叡山文庫の天海蒐集分を集めた「天海蔵」は同文庫中最大ですが、ちなみにこれに次ぐのは東塔の実俊大僧正による「真如蔵」の9600冊です。
脇坂安元は「数千」とのことです。散逸したのが死の直後で内容面での情報は少ないですが、江戸初頭の大名蔵書では、家康や直江と共に代表的な存在です。この後、尾張の敬公や松平忠房を経て、大名蔵書は水戸徳川や加賀前田の巨大さへ到達することになります。
八条宮家のお二人の親王は量はわかりませんが、古典の蒐集書写にご熱心であられたことはつとに知られており、現在宮内庁書陵部に桂宮本として多くが残っています。
ここからの5人は管理人の裁量による追加です。
この時代の反町さんのセレクトはやや癖があるように感じました。一般的には家康と直江兼続が質・量共に当時の代表的な存在だと受け取られてきたからです。また関白秀次の蒐集は二人をさえ質・量の両面で上回るかもしれないし、林羅山もこれに続く江戸初期では代表的な蔵書家です。直江、秀次、羅山の三人はどういうセレクトのやり方でもまず外せない存在だと思います。
妙覚寺住持日典と角倉素庵は規模の面で、選ばない選択肢もありかもしれません。ただ、書誌学的な事跡や蒐集内容に高い質が予想される点など、強く興味を憑かれるので載せる事にしました。
□ 豊臣秀次 Toyotomi Hidetugu 1568-1595
自刃するまでの八年間に豊臣秀次が文化面で残した足跡は、一昔前なら足利義政ほどには注目されていなかった。長い歴史を持つ金沢文庫と足利学校を持ち去った暴虐はともあれ、この名高い二文庫の貴重書を手中に収めた上に、他でも多くの蒐集を行った秀次は、一条兼良以降、松雲公や光圀公が現れるまでの200年間の個人蔵書では質・量共に最大かもしれず、少なくとも安土桃山期では匹敵するものが見当たらない。この集書は後世を益したとも言えないし、寧ろ混乱を招いただけにも思えるが、そもそも蒐集家を選ぶ際に倫理的側面に気を配る必要もない。この時期の蔵書家として秀次は外せない。それだけです。古代ローマ初期の大蔵書家もギリシア語圏からの拉書によってコレクションを築いた将軍たちでした。
秀次は和歌に優れ筆跡も見事、五山の禅僧を動員して能謡の編纂・出版も行う程の教養人であった。蒐集にあたっては特に古筆を愛好し古今の最重要な品を得ている。金沢文庫は秀次の死後、家康がもとに返却させるが、これ以降の金沢文庫本には古筆が多く混じっており、これは金沢文庫の伝統的な構成からは異質だし、家康の実学的嗜好ともかけ離れているので、秀次のものが相当数混じっている事を疑う余地はない。
管理人は最初この人をたんなる泥棒ぐらいに考えてカテを作るつもりはなかったが川瀬一馬の蔵書史を読んで少し考えを変えた。ただパーソナリティの異常さを思わせる言動は随所にみられる。例えば金沢文庫からは、義満や後北条氏、家康や松雲公なども欲しい本をちょっと抜いたりしていて、確かにこれも泥棒は泥棒かもしれないが(笑)、それでも文庫自体を持って行く様な途方もない事を実行した人間は彼一人だった。愛好していた古筆を例にとっても、彼はあの風信帖を切り取る様な行為に及んだ。
□ 直江兼続 Naoe Kanetsugu 1559–1620
秀次よりもっと普通の意味で、この時代を代表する蔵書家として昔から語られてきたのが直江兼続である。出版も併せて行った彼の蒐集の質には定評があり、その宋版の史記、漢書、後漢書などは現在では国宝に認定されている。諸大名からの借書の依頼も多く、コレクターとしてはライバルにあたる家康にも狙われていたのか、その意を受けた崇伝がコンタクトを取ってきた話もあった。ただ直江の場合、目録らしい目録はほとんど残っていない。
その出版方面でことに名高いのが「直江版文選」である。若き日の反町茂雄もこれが競売に出た時に「初めて見る好奇心」と「この高名な珍本を手掛けてみたい功名心」から1050円の高値で落札してしまい周囲のお歴々に驚かれたというエピソードがある。(秀次を別格に置くと)直江はこの時期では家康に並ぶ存在なので、そういう思い入れもある反町さんがなぜこの大きな名前を落としたのか、少し不思議な気がする。
□ 林羅山 Hayashi Razan 1583–1657
もうひとり外せない人物に、天海同様に家康の側近だった林羅山がいる。羅山は十七世紀の後半まで存命だったので、直江より時代は40年近く下がる。
彼の場合、自らの家塾である湯島の聖堂に寄付した分だけで2万巻あり、あとは自宅書庫に置いていた。前田が登場する以前の江戸初頭では量的に最大級の蒐集かもしれない。しかし晩年の火災で数万と言われた書を失い、そのショックなのか時をおかずに亡くなった。しかしこれには将軍家綱も援助を与え、紅葉山はもちろん、諸侯・宮中・公卿・寺社からも所蔵する珍書を提出する者が続出した。林家の私塾は事実上の最高学府だけあってその後も書は増え続け、官学化された林述斎の時(寛政九年 1797)には江戸では紅葉山文庫に並ぶ存在だった(述斎は羅山以来の林家蔵書にすべて「林氏蔵書」印を押して学問所へ移管した)。
羅山という人物は朱子学者としてはさほどの独創性はみられず今はせいぜい「江戸儒学の基礎を置いた」ぐらいの評価である。講談やドラマでも御用学者的なイメージが(事実であるにせよ)定着している。 管理人にはこの人の本質は該博な知識を持つ博覧強記タイプの典型の様に思える。そもそもが禅宗から儒者への転向組であり、儒学が禅僧の余技だった室町時代の空気が感じ取れる人物である。彼以降の江戸儒学からは国学やそれと関連の深い考証学ほどには名のある蔵書家は登場しなくなるが、羅山が江戸後期の国学者顔負けの蔵書を有していたのは、思想的に凝り固まったタイプではなかったからかもしれない。羅山は禅寺の小僧であった十代の頃から八方に書を求めて書写・購求に努めている。若くして440部も所有していたのである。
彼は世渡りがうますぎて体制イデオロギーとしての江戸儒学の基礎を築く事になってしまったため、皮肉にも漢学先生の元祖みたいなイメージで見られているのだけれど。
□ 日典 Nitten 1528- (追加分)
羅山や直江の様な有名な大蔵書家ではないが、日蓮宗妙覚寺の住持日典も追加しておく。
従来から宮内庁書陵部の宋元版に「妙覚寺常住日典」の印記の少なくない事は知られていたが、跋語や目録の状況から、あの有名な直江版「文選」も日典所蔵のものが底本ではなかったかとする神田喜一郎の論考がある。神田はそこから直江兼続を集書の道へ導いたのはこの日典ではなかったと推測している。
日典は備前の生まれで、その所蔵には日蓮宗以外に禅宗など他宗派のものも含み、経史子集の四部に渡って中には医書さえ見られたという。この頃までの仏僧の蔵書家といえば五山か南都北嶺と相場が決まっており訝し気に思うところだが、日典所蔵の「日本事始」に、前田綱紀の依頼で林鳳岡(羅山の孫)が書いた跋によれば、応仁の乱の折に一条兼良が妙覚寺に書を避難させ、そこから日典がこの「日本事始」を得たということだった。成程兼良の集を幾分かでも得たのであれば、確かにその書に満てるのも頷ける所である。
□ 角倉素庵 Suminokura Soan 1571-1632 (追加分)
角倉素庵は了以の長男にあたり、その朱印船貿易を継承した。また惺窩に師事し、羅山を惺窩に引き合わせたのも彼である。本阿弥光悦とも交際し光悦からは書を学んだ。
書誌学史上で有名なのは、なんと言っても光悦自らが版下を書いたと言われる光悦本の刊行である。豪商としての財力を背景に、『史記』を皮切りに「伊勢物語」「方丈記」「徒然草」「観世流謡本」など、数々の美麗な豪華本を世に生じせしめた。その底本になった善本群を始めとして、彼自身の蔵書も数千巻に上っている。
江戸も出版文化の中心になってからは豪商の蔵書家は多く出たが、こうした安土桃山期から江戸初期にかけての京都の豪商に比べると、文化的事跡にはやや乏しい。
〔Ⅱ 江戸前期~江戸中期 〕
■ 松平忠房 Matsudaira Tadafusa 1619-1700
脇坂安元のそれと並び従来からよく知られた蒐集である。昭和10年代に相当数が屑屋に払い下げられ、以降せどりの手にかかって多くが市場に出たらしい。それでも現在島原図書館に残っている分だけで1万余もある。
■ 徳川光圀 Tokugawa Mitsukuni 1628–1701
光圀公の場合、彰考館のものをカウントすると相当な量になる筈で、焼失した彰考館目録には7万冊が載せられていた。
水戸光圀の蒐集は大半が彰考館の大日本史編纂のための資料なので、個人的色彩を持った蔵書としては捉えにくい。やはり大きな蒐集を築いた伯父の徳川義直(尾張徳川)が、その膨大な書を使って日本の歴史を編纂しようとした事がそもそもの始まりで、これは神代史までで途絶するのだが、学識ある甥にその期待を託した事が、明治時代になってやっと完成する日本最大の史書「大日本史」へと結実したといえる。
光圀はこのために諸国へ多く人を派遣し、それは黄門漫遊伝説のもとになった。のちの彰考館総裁 佐々木助三郎も当時の全国を飛び回り、やがて「助さん」のモデルにもなる栄誉に与っている。
■ 前田綱紀 Maeda Tsunanori 1643–1724
書物の蒐集の面では「松雲公の前に松雲公なく、松雲公の後に松雲公なし」という事が言えるかもしれない
反町が江戸期で最も重要な蔵書家とした5代藩主前田綱紀以来の前田家累代の蒐集が蔵せられている尊経閣には、和書2万種あまり、漢籍は1万7千種、その他文献が5600種あり、多くが絶版および極めて貴重な書籍である(巻ではなく種なのに注意)。 江戸時代最大の集書である事は衆目の一致するところながら、昔からその面での情報は乏しく、蔵書量の推移などになると、ここの管理人ではよく分からない。江戸末期にはたしか梅堂も寒檠璅綴で「藩の蔵書のいかほどあるや儒臣といえどもしらず」と書いていた。
綱紀は、上記光圀の姉の子にあたり、その光圀がやはり尾張徳川の蒐書の礎を築いた徳川義直の甥であった事に思いをいたせば、江戸前期の大名蔵書における血脈の重要さが強く感じられよう。綱紀が書を集め始めた17歳の頃は、ちょうど光圀が邸内に史局を置いた直後だからである。(この他に保科正之の影響も考えられる)
前田綱紀という人はある意味江戸時代における外様大名の生き方の範となった人である。のみならずその徳政や文武両道、大教養主義などは武士階級の性格の形成にまで影響している。
初期の蒐集を助けたのが藩儒であった木下順庵なのはよく知られるところだが、のち書物奉行として最も活躍したのは津田光吉である。「水戸の使いが回ったあとを、前田の使いがまた回る」というのは当時の語り草だが、彼もやはり水戸の使いが回った後の全国各地を訪問した。上記の光圀による蒐集が、諸方から書を借り受けてそれを書写するかたちをとったのに対し、前田の場合は大枚をはたいて貴重な原本を購入することが多かった。そのため、加賀は我が国の集書史上他に類をみないほど善本に溢れる事になる。これは史書編纂を目的にする水戸との蒐集の性格の違いもあろうが、率直に言ってやはり財力(石高)の差に思えてしまう。水戸が一旦借りて写した後に返したものを、前田家の使いが大金で買い取った例は往々にしてあり、同じ典籍で水戸にコピーがあって原本は加賀に存在するケースが少なくない。前田が多くの財を投じて書を購ったのは二条家、三條西家、冷泉家、壬生菅家、高野山、東福寺、仁和寺、高山寺、二尊院、石清水八幡宮など数えきれない。
また前田は援助も盛んに行い、貴重な文献の多かったが破損も甚だしかった三条西家には自らの費用負担で文庫を修理させている。
□ 松下見林 Matsushita Kenrin 1637-1703
管理人追加分。見林は京の医者であり漢籍・国書を広く狩猟し博覧強記をもって鳴った。讃岐の藩儒にもなったが国学にも造詣が深い。先哲叢談では蔵書10万と言われたがこの本は木村孔恭も10万としていて、いつも10万10万言ってるので信用できない。本当に10万なら幕府紅葉山の末期に匹敵する量である。ただ、書に満ちていた事は確かであり、18世紀に屋代などが現れる前の、17世紀の市井の蔵書家としては、同じ京都の角倉素庵に並ぶ存在であろう。
〔Ⅲ 大名蔵書 〕
反町茂雄が挙げたのは、宮家の父子と家康側近の1人をのぞけば、皆大名です。大名の蔵書は個人の収集といえるのか、国(藩)の蔵書というべきか迷うところがあり、また代々継承されていくので個人趣味嗜好の色も薄くなってゆきます。蒐集の取捨選択をを専門の者が行うことも通例で、前田家の場合は当初木下順庵がその任に当ったことはよく知られていますね。海外でも事情は同様。メディチ家司書マリアベーキ、マザランの司書ガブリエル・ノーデ、二代目スペンサー伯におけるトマス・ディブディンなどは書誌学史上では有名な存在でした。
とはいっても、本好きな殿様、歴代の蒐集活動に特に大きな影響を与えた殿様がいることも一方事実で、蔵書家の星として前田綱紀を反町が挙げたことは、反町さんの定義自体はあいまいで前田と屋代・浅野を並べることにかなりの無理はあるものの、気持ち的に理解できないこともありません。大名蔵書は個人のコレクションというより、藩の蔵書という性格が強いですが、その基礎を作り最大の蒐集活動を行った人物の代表例として、前田綱紀が存在するわけです。ただ、それは単なる集書活動にとどまらず、諸藩から様々な異本を借り受け、校訂して正しい版を作る、といった名君による一種の文化事業なんですね。(その反面、「前田は本を返さない」ことで悪評がありました)
以下各藩を覧ていきましょう。
まず大名による蔵書で、世に「三大」と冠せられたのは、前述した加賀の前田綱紀のほか、幕府将軍家、豊後の毛利高標の三つ。
□ 徳川将軍家 紅葉山文庫 Tokugawa Clan
幕府紅葉山文庫は「元治増補御書籍目録」に載った分では漢籍約75000、御家部約26000、国書部約12000冊の計11万3千冊です(16万あったという説もあります)。加賀前田家の蒐集は前田綱紀がコレクションの基礎を築きましたが、幕府紅葉山文庫の場合それにあたるのが八代吉宗で、この時代の拡充は特記されるべきでしょう。国学の隆盛と期を同じくし、またそれに刺激を与えています。三上参次の「江戸時代史」によると、書物奉行に下田幸太夫を任じて国書の充実を図り、吉宗自身が一条兼良の「桃華蘂葉」を校正したなんて話があるから半端ではないですね。
この書物奉行は歴代で九十人を数え、一人で宰領するという事はなく、常時四人ほどが任ぜられていました。前に読んだ森潤三郎の研究によると、当初の頃は林家が目録などを作成していた様でしたが、徐々に彼らによる管理が整備されてゆきます
下田のほかにも歴代には著名な人士が多数です。とりわけ近藤正斎(第五十四代)は昔の古本屋にとって親しい存在で、彼が著した「右文故事」は明治期ぐらいまでの古典籍商には査定のためのアンチョコとして重宝されたものでした。 第六十一代の林復斎は、この後大学頭にも任ぜられ、幕府の頭脳として横浜でペリーとの交渉を行った人物でもあります。 あと、変わり種としては鈴木白藤(第五十五代)のように自身も蔵書家として名を馳せた人もいます。この人などはビブリオフィルの悲しい性から紅葉山の秘蔵の書を極秘で筆写、それを友人達に与えた事が露顕して職を免ぜられました。友人の太田南畝はこの事件に関して詩を贈りましたが、この人は現在では墓もありません。
ちなみに幕府の紅葉山文庫は特に吉宗時代に顕著なのですが、加賀の前田家同様、明らかに集書・校正事業です。買い集めるだけでなく、公家・大名・寺社・儒者に借り受けて写しをとり、諸本を比較し校正する。それは古文書から古器物に至るまでコピーを作るほど徹底している、しかもそれを幕府の権力づくでやるわけです。ある意味これはドイツでやってたモヌメンタ=ゲルマニアエ=ヒストリエアカに近い性質のものかもしれません。一条家では「関東よりの借書の依頼は全く迷惑なり」とか日記にしたためていました。
紅葉山は維新後二つに分かれ、宮内省の図書寮と内閣文庫へ。図書寮は現在の宮内庁書陵部の前身にあたります。図書寮を管理したのは図書頭で、こちらも歴代の顔ぶれには著名な人が多く、田中光顕・森鴎外など御本人自身がこのブログで名前を挙げられているほどの蔵書家もいます。
□ 毛利高標 Mouri Takasue 1755-1801
「三大大名蔵書」の最後を飾るのが、この豊後毛利家。藩主の毛利高標の佐伯文庫はおよそ8万を数えます。しかし2万巻を幕府に献上しています。石高わずか2万石で徳川や前田に並ぶ質の高い本を集めた高標は学者大名と呼ばれ、この蒐集もほとんど彼一代で形成されたようなものです。その内容は漢籍中心で経・史・子・集は勿論、ト占・農・医と広く各部類にわたり、宋・元・明版などの古い版も多く、洋書も相当あったといいます。ことに漢籍は明治期に清の大蔵書家方功恵の使いが中国で消えた孤本を買いに来た程でした。
この豊後毛利は長州藩の支藩にあたるんですが、いま一つの支藩である徳山毛利家もやはり漢籍蒐集では名高い存在ですね。
おしなべて大藩の書庫は充実しているようで、肥後細川藩(52万石)などは末期には漢籍だけで10万あったとされます。
□ 尾張徳川家(62万石)も家康から分与された駿河御譲本は377部2839冊が、12年後羅山が孔子堂を観に来た時に記したものによると一千部とあるからすでに倍以上になっています。歴代ではこの初代徳川義直(敬公)による集書活動が著しく慶安3年(1650)に亡くなった時の書籍引継簿では一万五千百四十四冊を数えました。これは水戸光圀や前田綱紀が登場する以前の17世紀前半時点での大名蔵書として最大規模でしょう。羅山に学んだ彼の場合、読書や集書は正しい歴史の編纂という方向に進み、それは神代史(『神祇宝典』)で途絶しましたが、甥の光圀の『大日本史』へ続く道を開きました。その光圀の甥(姉の子)にあたるのが前田綱紀なので、大名蔵書のレコードを塗り替えていったのが、いずれも叔父・甥の関係にあるのは興味深いです。幕末には5万点を数えたこの蒐集も明治期にはその三分の一が流出。旧藩士の蔵書などを追加し七万冊で蓬左文庫として法人化したものの戦後名古屋市に買い上げられます。
□ 紀州徳川家(55万石)。2万余。江戸では藩邸学問所(明教館・古学館・観光館)に、国元では学習館・国学所などにありました。
□ 徳島藩25万石の蜂須賀家の場合、書の蒐集では上記の三大大名蔵書に次ぐほどの名声を誇っており、盛時には加賀の前田に比較されるほどでした。十二代重喜が蟄居後に「萬巻楼」を創設し集書を始め、十四代斎昌の時に藩儒柴野栗山の蔵書と国学者屋代弘賢の不忍文庫(三棟の内、二棟分)を加えて6万に達する「阿波国文庫」となります。しかし維新後に藩士への分譲などで散逸し、徳島の図書館に収められた残り3万も火災で焼失。別に江戸藩邸にあった2万の蔵書は戦後一括して売却されてしまいます。
□ 岡山藩31万石の池田家では、池田光政の入城(1632)から廃藩置県(1871)に至るまでの240年間の蓄えがあり、それらは和書4166部(22117点)、漢籍653部(10420冊)併せておよそ3万を数えます。他に藩政資料が68083点もあってこれらは現在岡山大学池田文庫に蔵せられています。
□ 佐賀藩35万石の鍋島家は図書館も自ら設立して3万点をそこに移管していますが(これはのち県立佐賀図書館となる)、古文書類・絵図を含んだ数なので和書・漢籍・洋書等がどのくらいかは分かりません。
(ところがそうした反面で、外様では前田に次ぐ石高(実高)の仙台の伊達文庫には4170しかありませんでした。ただ終戦直後の伊達伯爵家観瀾閣には2万数千程あったらしくこれはそれ以降集められたものでしょうか)
一方小藩では、毛利高標と並んで「学者三大名」と称された市橋長昭・池田定常の二人が少ない石高ながら質の高い蒐集をしています。また高標には及びませんが長州藩のもう一つの支藩である徳山毛利家の蒐集も重要です。
□ 市橋長昭は、宋版・元版の漢籍を数多く所蔵しそこから厳選した30部を湯島聖堂に献納(うち21部が重文です)。
□ 池田定常も、佐藤一斎に学ぶこと40年に及び自身でも多くの著述をなしました。(が、江戸大火の折、膨大な蔵書と原稿の大半を失っています)
□ 徳山毛利家は、豊後毛利と同様に長州毛利の支藩です。三代藩主毛利元次以来の棲息堂文庫は総計1224部(うち漢籍756部)。殊に漢籍が名高く調査した上村幸次は「中国の学術文化の研究に欠くことの出来ない典籍は殆ど網羅され、更に地方志・小説・戯曲の類までこれを文庫に収めたことは恐らく当時にあっては異例のことと考えられる」と述べています。明治29年に選りすぐりの和書405部漢籍645部を宮内庁に献上しました。残部が山口図書館に8208冊あります。
□ 信州飯田の堀家は、上記の徳山毛利が漢籍で知られていたのとは対照的に国学関係で有名です。医学・地理・歴史・武術・有職故実・文学と幅広い内容。
以上、江戸時代の300諸侯のうちから11の大名蔵書を追加しましたが、質・量・歴史上で果たした役割、の3点からみて、「三大大名蔵書」以外で特に重要な存在はといえば、水戸徳川、尾張徳川、徳島蜂須賀家、肥後細川家あたりではないかと思われます。
(肥後細川藩は少し複雑な事情があるので 別ページ を設けました)
日本の大名蔵書のその後の行く末にも目を移しておきましょう。
明治四年に、文部省が各府県に命じ、旧藩蔵書の目録を作成させました。それをまとめて「聚珍書目一覧表」を作り、ここから新設の書籍館(現在の国立国会図書館)に足りない和漢の書を採ったという話です。そして残った書は、各藩が夫々のやり方で処分してゆく事に決まりました。多くは売却される事となります。(勿論前田・細川など今日までその富をを保ち続けている名だたる文庫はその限りではありません)
ドイツの領邦君主の宮廷図書館の多くが、そのまま現在の州立図書館へ移行しているのと比べると、これは大きな違いになりました。この事が明治期の古書価格の低下につながり、量・質ともにこれまでにない規模の市井の蔵書家を生んだからです。
大名蔵書・藩校の蔵書に共通して言えるのは、地方に規模の大きなものや名高いものが多く、二三を除けば、出版文化の中心であった江戸周辺の関八州にめぼしいものが見当たらないことです。
これは幕府のとった関東における小藩政策にも一因はありますが、小野則秋の指摘したように「将軍家の上に出ることに対して大なる制約を受けていた」事が主因とみられます。同様の事は書物に限られず文化全般に対しても言え、例えば、明治まで能楽の流派が続いてきたのも(つまりそれを庇護してきたのも)、江戸・駿府の様な幕府直轄地や上方を別にすれば、加賀(前田家)と肥後(細川家)だけでした。
〈トピック 藩校の蔵書〉
藩校に置かれた文庫はこれも厳密にいえば藩主所有なのかもしれませんが、個人蔵書からは離れすぎるので、このブログでは本腰を入れた記述はしません。しかし規模の面から言えば、城の中に置かれた大名蔵書に匹敵する場合が普通です。
柳川藩などは十一万石の石高にして1400部1万冊もあったし、彦根藩の2200部、米沢藩の1800部も大きいです。
藩校でことのほか有名なのは、やはり肥後の時習館や再春館、尾張の明倫堂などでしょうが、時習館蔵書は安政元年の調査によると、およそ5000部35583冊というからかなりのものでした。(別頁を設けた 細川藩の蔵書 も併せてご覧ください)
数多い藩校のうち、最大のものはやはり加賀前田の明倫館でこれは7万6千冊にも上りました。天保年間の記録なので幕末に至るまでの間にここから更に増加したことは間違いなく、昌平校に次ぐ規模だと思います。
江戸において紅葉山と並ぶ「もう一つの幕府蔵書」であった昌平校の文庫について最後に触れておきましょう。
このページの個人蔵書家としての林羅山の項目で、林家家塾であった湯島聖堂の書は、主に林家からものが移転されていた事は記しました。
息子の林鵞峰の時の書目では、漢籍が1380部、和書の他に家書が760部もあり、総計2600部に達しています。少し後の「昌平志」によると、冊数にして2万を越えたぐらいの数です。鵞峰の頃はちょうど本朝通鑑の編纂に大わらわでしたが、これ以後の一時期は通鑑のための史料図書館の趣もありました。収集した史料は正本は紅葉山に収め、副本を林家に置いたそうです。
林家の家塾であってもここは事実上の武家社会の最高学府ですから、この後も蔵書数は伸び続けます。羅山の死後140年経って官学化され、晴れて昌平校となった以後には、同じ幕府の紅葉山の書が移される事も多かったといいます。
明治になって昌平校が廃された後、博覧会事務局の管理下に移され浅草文庫となりました。この時で大体12万冊です。一部他へ行ったのもあるし、逆に他から来たものもありますが、末期の昌平校蔵書の規模はこれを基準に推定可能でしょう。
総目次
◇まずお読みください
◇主題 反町茂雄によるテーマ
反町茂雄による主題1 反町茂雄による主題2 反町茂雄による主題3 反町茂雄による主題4
◇主題補正 鏡像フーガ
鏡像フーガ 蒐集のはじめ 大名たち 江戸の蔵書家 蔵書家たちが交流を始める 明治大正期の蔵書家 外人たち 岩崎2家の問題 財閥が蒐集家を蒐集する 昭和期の蔵書家 公家の蔵書 すべては図書館の中へ
§川瀬一馬による主題 §国宝古典籍所蔵者変遷リスト §百姓の蔵書
◇第一変奏 グロリエ,ド・トゥー,マザラン,コルベール
《欧州大陸の蔵書家たち》
近世欧州の蔵書史のためのトルソhya
◇第二変奏 三代ロクスバラ公、二代スペンサー伯,ヒーバー
《英国の蔵書家たち》
◇第三変奏 ブラウンシュヴァイク, ヴィッテルスバッハ
《ドイツ領邦諸侯の宮廷図書館》
フランス イギリス ドイツ イタリア
16世紀 16世紀 16世紀 16世紀 16世紀概観
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◇第四変奏 瞿紹基、楊以増、丁兄弟、陸心源
《清末の四大蔵書家》
夏・殷・周・春秋・戦国・秦・前漢・新・後漢 三国・晋・五胡十六国・南北朝 隋・唐・五代十国 宋・金・元 明 清 中華・中共 附
◇第五変奏 モルガン,ハンチントン,フォルジャー
《20世紀アメリカの蔵書家たち》
アメリカ蔵書史のためのトルソ
◇第六変奏
《古代の蔵書家たち》
オリエント ギリシア ヘレニズム ローマ
◇第七変奏
《中世の蔵書家たち》
中世初期 カロリングルネサンス 中世盛期 中世末期
◇第八変奏
《イスラムの蔵書家たち》
前史ペルシア バグダッド カイロ コルドバ 十字軍以降
◇第九変奏 《現代日本の蔵書家たち》
本棚はいくつありますか プロローグ 一万クラスのひとたち 二万クラスのひとたち 三万クラスのひとたち 四万クラスのひとたち 五万クラスのひとたち 六万クラスのひとたち 七万クラスのひとたち 八万クラスのひとたち 九万クラスのひとたち 十万越えのひとたち 十五万越えのひとたち 二十万越えのひとたち エピローグ TBC
◇第十変奏 《現代欧米の蔵書家たち》
プロローグ 一万クラス 二万クラス 三万・四万・五万クラス 七万クラス 十万・十五万クラス 三十万クラス エピローグ1 2
◇第十一変奏
《ロシアの蔵書家たち》
16世紀 17世紀 18世紀① ② ③ 19世紀① ② ③ 20世紀① ② ③
Δ幕間狂言 分野別 蔵書家
Δ幕間狂言 蔵書目録(製作中)
◇終曲 漫画の蔵書家たち 1 2
◇主題回帰 反町茂雄によるテーマ
§ アンコール用ピースⅠ 美術コレクターたち [絵画篇 日本]
§ アンコール用ピースⅡ 美術コレクターたち [骨董篇 日本]
§ アンコール用ピースⅢ 美術コレクターたち [絵画篇 欧米]
§ アンコール用ピースⅣ 美術コレクターたち [骨董篇 欧米]
§ アンコール用ピースⅤ レコードコレクターたち
§ アンコール用ピースⅥ フィルムコレクターたち
Θ カーテンコール
閲覧者様のご要望を 企画① 企画② 企画③ 企画④
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