蔵書家たちの黄昏

反町茂雄の主題による変奏曲

[9] 鏡像フーガ4 江戸の蔵書家  蔵書家たちが交流をはじめる

反町の主題にある「(江戸)中期以降では松平定信・水野忠央・屋代弘賢・狩谷棭斎・塙保己一・新見正路・浅野梅堂等々。更に大田南畝・馬琴・種彦・豊芥子に至るまで、その数は相当に多くあります」の言葉のとおり、ここから市井の人たちの蒐集が本格的になります。
多くの蔵書を持つには当人の条件以外に、まず得るべき本が市場になければ話になりません。この面での西洋中世の極度の貧しさは後で詳説しますが、昭和元禄の時代になって井上ひさしや谷沢永一が幕府蔵書をはるかに上回る冊数を保有していたのは、何より時代のもつ情報の豊富さの証とも言えました。中期以降の江戸時代がそうした条件を備えてきたということなのでしょう。 以下、例によって反町茂雄の文章で挙げられていた蔵書家を■で、ブログ側が追加した蔵書家を□で表していきます。

 

 では前章を引き継ぐような大名系の蔵書家二人から。
 ■ 松平定信 宝暦8年12月27日 – 文政12年5月13日 Matsudaira Tadanobu 1759-1829
 ■ 水野忠央 文化11年10月1日 – 慶応元年2月25日 Mizuno Tadanaka 1814-1865
 まず松平定信の場合、彼の蔵書目録は現在市販されているので参考になる。「松平定信蔵書目録全2巻[監修]朝倉治彦[解説]高倉一紀 揃定価43200円」。その楽亭文庫は文政五年には蔵書2万5千巻を超えている。定信は年に400冊以上も読む人で、また失脚した後の後半生では200部に及ぶ著述をものにしているのである。
 次に水野忠央。紀州藩家老で新宮城の当主だが、その蔵書は四万点ともいわれ、これをもとに編纂した「丹鶴叢書」は全152巻に及ぶ。

 

 

 次に屋代輪池以下は、主として学者・文化人などが続きます。 
 ■ 屋代弘賢 宝暦8年 – 天保12年閏1月18日 Yashiro Hirokata 1758-1841
 国学者で、幕府の右筆も務めた。塙保己一門下であり、『群書類従』の編纂にも携わっている。上野不忍池のほとりの「不忍文庫」は蔵書5万冊を誇り、名実ともにこの時代の代表的な蔵書家。反町も江戸時代を代表する三人として松雲公・浅野梅堂と並称している。小山田与清・大田南畝・谷文晁など、他の大物蔵書家とも交友があり、そのネットワークの中心にいた。
 反町は信頼に値する目録はないとしているが、現在ではこちらも蔵書目録が市販されている。(朝倉治彦編『屋代弘賢・不忍文庫蔵書目録』全6巻 ゆまに書房、2001年) 詳しくは「江戸の蔵書家たち」 (講談社選書メチエ) 1996/3岡村 敬二を。

 ■ 狩谷棭斎 安永4年12月1日 – 天保6年閏7月4日 Kariya Ekisai 1775-1835
 江戸後期の考証学者。父は書籍商でのち狩谷保古の養子に。津軽藩御用達という富裕な町人身分だったが、上記の屋代弘賢に師事して和漢の学を授けられる。一方考証学では吉田篁墩の学統を継ぐ。蔵書は2万ほど。
 鴎外が『澁江抽齋』『伊澤蘭軒』『北条霞亭』の史伝三部作に続いてこの狩谷棭斎を取り上げる予定だったことはよく知られているが、晩年のエッセイでぼやいてたように掲載紙サイドの不評により、このシリーズは打ち切りになってしまった。

 ■ 塙保己一 延享3年5月5日 – 文政4年9月12日 Hanawa Hokiichi 1746-1821
 ご存知盲目の国学者だが、どうやって本を読んでいたのかわからない。所有数は、山崎美成によると2万余巻だが、一方足代弘訓によると6万巻となっている。
 とにかく、塙保己一→屋代弘賢→狩谷棭斎→渋江抽斎という国学の師弟関係はそのまま巨大な蔵書を有する情報の宝庫だったわけである。

 ■ 大田南畝 寛延2年3月3日 – 文政6年4月6日 Oota Nanbi 1749-1823
 幕府御家人の傍ら、狂歌師として名を馳せ唐衣橘洲・朱楽菅江と共に狂歌三大家とも称されている。所有は2万ほど。
 江戸の蔵書家ネットワークの中心にいた彼が、大坂銅座に赴任した折りに木村蒹葭堂や上田秋成との関西ネットワークと交流したことはこの時代のトピックと言える。

 

 ■ 滝沢馬琴 明和4年6月9日 – 嘉永元年11月6日 Takizawa Bakin 1767-1848
 当代を代表するこのベストセラー作家も。老いて目が弱り、孫も読書を好まないため五十年かけて集めた書を晩年に全て売る事になった。引き受け手は下記の小津桂窓など。「官府・林家にしかないような大珍書」も手放し、孫に同心株を買ってやったとの事である。高牧實「滝沢馬琴 蔵書・自著・自作旧板・稿本の売却」に詳しい。

 ■ 柳亭種彦 天明3年5月12日 – 天保13年7月19日 Ryuutei Tanehiko 1783-1842
 江戸時代後期の戯作者で彼も馬琴同様当時のベストセラー作家。

 ■ 石塚豊芥子 寛政11年 – 文久2年 Isizuka Houkaishi 1799-1862
 江戸末期の考証学者、というより市井の考証家で、珍本のコレクターとして知られる。上記種彦とも交友があり、鴎外の「渋江抽斎」にもたびたび登場する人物

 

 ■ 新見正路 寛政3年9月12日 – 嘉永1年6月27日 Niimi Masamichi 1791-1848
 江戸後期の幕臣で、徳川家慶の御側御用取次も務めた。邸内に賜蘆文庫を設ける。 関西人にはあの偉大な天保山を築いた事でもよく知られている。

 ■ 浅野長祚 文化13年6月9日 – 明治13年2月17日 Asano Nagayoshi 1816-1880
 梅堂の名の方が通りがいいかも。幕末から明治にかけての幕臣(旗本)で、芸術に造詣が深く自身も多くの作品を残す一方、中国書画の鑑定家では当時第一人者と称された。
 蔵書家としては5万巻を有し、大名蔵書を別にすれば江戸期では小山田与清や屋代弘賢と共に最大クラスだろう。続日本随筆大成3で読める「寒檠璅綴」は実に多岐に及ぶ内容でその該博な知識には舌を巻く。時期的にはもう幕末の人で明治13年まで存命だった。なので、19世紀初頭の屋代や太田たちによる交流の次の時代の蔵書家になる。

 

 

 反町茂雄は江戸後期からは以上の11人を挙げています。たしかに大名は少なくなりましたが、市井の人とはいっても、まだ幕臣で学者を兼ねているような人が多いです。
 また正統的アカデミズムたる漢学よりも、むしろ国学の方に大きな蔵書が多い傾向もみて取れます。試しに昌平黌で主導的な学者のそれをみていくと、佐藤一斎が河田烈文庫に残ったもので1900冊(それ以下)、安井息軒はかなり多い方なんですがそれでも父・子を合わせた三代にわたる蒐集で7千ぐらいです。これは江戸で紅葉山に並ぶ書の宝庫だった湯島には殆ど何でもあったためかもしれないし、当時の市場における漢籍と和本の比率も考える必要もありますが、やはり国学と漢学との性質の違いが主だと思います。
 こうした国学の流れは、たとえば塙保己一→屋代弘賢→狩谷棭斎→渋江抽斎という師弟関係を例にとってみても、考証学という方向へ傾斜してゆくことが明らかです。なぜなら彼らはいずれも漢学も学んでおり、抽斎などはさらに医家でもありました。そして、そこに「もう一つの官学」である医学館の多紀氏が考証学への接近をみせてくるわけです。医薬書の校訂によるその「考証医学」は本場の中国をも凌ぐものとされ、ひょっとして江戸の知の頂きは儒学でも国学でもなくここにあったのではとも思われますが、鴎外が晩年にこうした医家兼考証家の伝記執筆へ向かって行ったのはそのあたりに勘づいていたからかもしれません。しかしそれより前、明治初期に来日した清末の大蔵書家たちは敏感にこれを嗅ぎつけ、鴎外が気づいた時には多紀氏や伊沢・渋江家、小島宝素などの蔵書の多くは楊守敬に買われてしまった後でした(この人は中国篇で取り上げてます)。今では書誌学の金字塔のような扱いの「経籍訪古志」ですら、楊守敬が初めて出版する前は原稿のまま蔵せられていたものです。さて、脱線は取り合えずここまで。
 あとひとつ不思議なのは、なぜか江戸第一とも称された小山田与清の名前が反町さんのリストにないことですね。これは専門的な古書籍商さんの事ゆえ日々の取引の中で蔵書印等から彼らのコレクションの「質」を見極めた上での判断なのか、それとも単にこのとき小山田の存在を忘れていただけなのか、そこのとこはよくわかりません。
 で、小山田をはじめとして、なぜか触れられなかったこの時代の主要な蔵書家20人をここから示しておきましょう。特に反町は上方の蔵書家にはほとんど触れてないので、東西の交流が盛んだったこの時期ではこの部分は重要なんです。

 

 □ 小山田与清 天明3年3月17日 – 弘化4年3月25日 OyamadaTomokiyo 1783-1847
 江戸後期の国学者。古屋昔陽・村田春海の門下。小山田が養子に入った高田家は江戸の河川交通を支配する富商であり、彼は神田の通船屋敷に擁書楼という書庫三棟を建てて同学諸氏の閲覧に供している。博識と書誌学的知識が水戸斉昭に認められ大日本史編纂のため史館別局にも出仕した。山崎美成も彼の門下だった。蔵書数はおよそ5万ほどで、これらは没後に水戸彰考館へゆく。
 江戸第一といわれ、屋代弘賢と双璧とされていた小山田だが、彼も国学者であり、この時代の蔵書家たちのほとんどが国学系で朱子学者が少ないのに気づく。

 □ 岸本由豆流 寛政元年 – 弘化3年閏5月17日 Kishimoto Yuzuru 1789-1846
 江戸後期の国学者。小山田同様に村田春海門下である。典籍の収集家で蔵書は3万。晩年浅草聖天町に住み、狩谷棭斎、市野迷庵、村田了阿、北静盧らと交友した。

 □ 谷文晁 宝暦13年9月9日 – 天保11年12月14日 Tani Buncho 1763-1841
 画壇アカデミズムの頂点にいた彼が、市井の絵師を代表する北斎と共に将軍家斉の御前で絵を描いたエピソードは有名。北斎とは違い大教養人で、和歌や漢詩をよくした。その交友の広さも wiki にあるようにかなりのもの。

 

 □ 吉田篁墩 延享2年4月5日 – 寛政10年9月1日 Yoshida Kouton 1745-1798
 考証学者としては師の井上金峨を継ぎ、弟子の狩谷棭斎につなげた存在である。そもそも幕府の医官に考証学が広まったのは、井上金峨がその講義を医学館で行ったからであり、篁墩も水戸徳川の医官だった。名医の誉れ高く三十歳で侍医になったが不祥事を起こして禄を失い、その後井上金峨に師事する。
 蔵書家としては、交友関係にあった屋代輪池にやや先立つ時期の江戸を代表する存在であって、一時は西の蒹葭堂と併称された。が、晩年にすべて処分し子孫のため田畑を購入する。奇書珍書に最も優れたとされるその書は蒹葭堂に売ったという

 □ 伊沢蘭軒 安永6年11月11日 – 文政12年3月17日 Izawa Ranken 1777-1829
 医家。下記の抽斎の師であり、大田南畝、狩谷棭斎とも交わった。所蔵は数万巻とされた。

 □ 渋江抽斎 文化2年11月8日 – 安政5年8月29日 Shibue Chusai 1805-1858
 医家で考証学者。国学では棭斎門下であり、塙、屋代の学統を継ぐ。医では上記蘭軒の弟子にあたる。やはり2万近い蔵書家であった鴎外が古書を漁っていた時に多く目にした蔵書印から、かつてこのような書を所蔵していた見識の人物が江戸にいた事に感慨を抱き、あの史伝三部作へ向かっていった話はよく知られる。「渋江抽斎」「伊沢蘭軒」は近代日本文学の頂点ともされたが、「北条霞亭」は調べていく内に下らない人物なのが段々分かってきて筆も鈍り滞っていった。
 抽斎の書は世に三万五千部と称せられたが、放蕩息子の優善が持ち出し、検分したときには一万部にも満たなかった。そのあと悪友の森立之や石塚豊芥子が借りると称して持ち出し、最後は3500部ほどになってしまった。(本当に巻ではなく部だとすると相当な数になる)

 □ 多紀家 TAKI
 林家の家塾が昌平黌として官学化され明治期以降には東京大学の文系学部の源流となった様に、多紀氏の家塾躋寿館も医学館として官学化され、それは現在の東大医学部につながっている。江戸期最大級の蒐集のひとつとして林家の蔵書に触れておきながら、危うくこの多紀氏を忘れるところだった。多紀氏は代々将軍の侍医や奥医師・医学館総裁等を歴任してきた漢方医学の最高権威であり、手塚治虫の「陽だまりの樹」では著者の祖先である蘭医の立場から悪役に描かれていたのを思い出された方もおられるかもしれない。
 多紀氏は元簡の代に屋代弘賢など考証学者と広く交流し、古医書を蒐集しまた出版した。これは二人の息子(元胤・元堅)にも継承され、彼ら三人の著述は江戸医学の頂点をなしたとされる。
 1806年に医学館が焼失した際には幕府が書の寄付を募るが、これに応じ最も多くを献上したのはやはり医学館の元の主だった多紀本家で、元胤がその所載書を記した『聿修堂蔵書目』には1169(経解46・傷寒類34・傷寒証治方論70・附録外感11・本草106・食治12・農書4・診法65・雑病421・婦人科43・幼科雑病59・幼科痘疹80・瘍科46・眼目口歯科20・明堂経脈86・運気8・養生23・史伝7・書目1・小学1・叢書26)部の書が載せられている。巻数もわからないが、もとよりこれが多紀家の蔵書の全てである筈もない。ちなみに江戸医学館の書は2千部数万冊ほどだったという。
 多紀家の家督は兄元胤が継ぎ、弟元堅は別に一家を興す。元堅も数代にわたる将軍の侍医を務め、やはり父の学風を継ぎ善本医籍を収集,校訂するが、早世した兄に代わり考証学的な方法論をさらに徹底させていった。また医学館を幕府医官以外の各藩医師や町医にも開き、上記の渋江抽斎や小島宝素の師ともなった。宝素や喜多村直寛と共に江戸の3名医と称され、その家塾には800人が学んだ。
 紅葉山文庫の本を、狩谷棭斎の下で渋江抽斎や蘭軒の2子、小島宝素などが購読していたエピソードがあるが、これは多紀元堅が借り受けたものだった。それぞれ万巻の書を有していた彼らは幕府重職にあった多紀を通じて紅葉山の書物へのアクセス権も手に入れてたわけである。

 

 小山田与清・屋代弘賢・大田南畝・岸本由豆流・谷文晁らの間には互いに交流があり、そのネットワークの中核にいた大田南畝が、上方の蔵書家たちの中心的存在だった木村蒹葭堂を訪問したくだりは、この時代のトピックといえます。
 南畝は享和元年(1801)大坂銅座勤務の折に蒹葭堂宅を訪問し、翌正月には、蒹葭堂が南畝を訪問し長時間歓談。二人の周辺では名だたる蔵書家が集い読書会を催したり趣味を介した交流が行われます。ただ蒹葭堂はその月の25日に亡くなっているので交遊もこれで終わりになりました。
 この時期は他にも、屋代弘賢は京都・奈良の古社寺で古宝物の調査をしているし、狩谷棭斎も京都の書肆・竹苞楼銭屋惣四郎を数度にわたり訪問してその助力の下に貴重な古典籍を蒐集しています。谷文晁のように東西の両サークルに属していた蔵書家もおり、江戸と上方の交流が盛んだった様子がよくわかります。

 

 □ 木村蒹葭堂 元文元年11月28日 – 享和2年1月25日 Kimura Kenkadou 1736-1802
 文人、文人画家、本草学者と呼称は様々だが、物産学に通じ、禅にも精通、蘭語・ラテン語を解し、煎茶、篆刻をも嗜む。
 裕福な商家の財力を背景に2万を越える蔵書の他、書画・骨董・器物・地図・鉱物・動植物標本に及ぶ一大コレクタションを形成した。その意味では英国のハンス・スローンにも比せられる存在といえよう。邸宅跡が現在大阪市立中央図書館になっている事実もスローンを思わせるエピソードだ。
  知識やコレクションを求めて諸国から来た多くの人を貴賤を問わず受け入れ、邸宅は当時の文化サロンとなった。「浪速の知の巨人」とも称せられる。
 上に記した2万という蔵書数は交際のあった松浦静山の『甲子夜話』に拠る。一方『先哲叢談』では10万とあり、これはさすがに誇張であろう。しかし『甲子夜話』の記述は蒹葭堂が亡くなる十五年も前のもので、しかもこの間には「西の蒹葭堂、東の篁墩」と併称された吉田篁墩の蔵書を買収している。末期には屋代に遜色のない規模に達していたとみてよいかもしれない。
 蒹葭堂という人はやはり目立ちすぎたのだろう、町人の分際で不届き至極であるという事らしく、彼の死後、幕府は突然目録提出を命じ、何かと口実をつけて書を献納させた。対価としてはわずか500金を与えたのみであった。

 □ 上田秋成 享保19年6月25日 – 文化6年6月27日 Ueda Akinari 1734-1809
 雨月物語で有名な彼も蒹葭堂周辺のサークルの一員だったが・・・

 □ 頼春水 延享3年6月30日 – 文化13年2月19日 Rai Shunsui 1746-1816
 儒者・詩人。頼山陽の父。その詩才は当時から評価が高かった。大阪時代に蒹葭堂と交流している。

 □ 松浦静山 宝暦10年1月20日 – 天保12年6月29日 Matsuura Seizan 1760-1841
 平戸藩主。随筆集『甲子夜話』は現在でも読まれている名著である。3万3000の蔵書をもつ彼の場合、大名蔵書として本来前頁に記すべきかもしれないが、蒹葭堂サークルの一員としてこちらに置いた。

 □ 山本亡羊 安永7年6月16日 – 安政6年11月27日 Yamamoto Bouyou 1778-1859
 上方で蒹葭堂亡き後その衣鉢を継いだのが亡羊の読書室である。この私塾の旧蹟には本草書2万巻がある。蒹葭堂と同じく蘭山の門人にあたり、医業を営み本草を講じた。
 後世、磯部屋亀吉が南葵文庫の代理人と騙ってここから4000冊近い本草書を買い付け、岩瀬文庫に売ったのは有名な話である。2014年になっても土蔵から重文級の数百点を含む数万点が発見されている。孫の復一によるものも多いらしい。

 

 

 上には、この時期の蔵書家ネットワークの形成に与かった人たちをまず挙げましたが、他に重要な存在として江戸で朽木兵庫助、市野東谷を、上方で大塩平八郎、伊藤(仁斎)家、真宗大谷家、福井家を、伊勢で小津桂窓、竹川竹斎を、備前岡山で河本家を加えておきます。

 

 □ 朽木綱泰 Kutsuki Tsunayasu
 幕臣。通称は兵庫助である。3万巻に上るその書は国史・律令・公事・家記・補任・地史・兵書・分限帳など多岐にわたった。朽木文庫書目あり。

 □ 市野東谷 享保12年4月27日 – 宝暦11年10月11日 Ichino Toukoku 1727-1761
 市野迷庵の祖父。もとは富裕な質屋の出だったが太宰春台に師事し儒者となった。3万巻。

 

 □ 大塩平八郎 寛政5年1月22日 – 天保8年3月27日 Ōshio Heihachirō 1793–1837
 大塩の乱で知られる彼も5万に及ぶ蔵書を有していたと伝えられる。これは叛乱の資金源になったようで、売却して600両になったとか。

 □ 伊藤家 古義堂文庫 ITOU
 伊藤仁斎及びその子孫の原稿を含んだ5501点1万冊の蔵書。昭和前期まで無傷のまま保存されていたが天理に買われた。

 

 □ 本願寺宗主大谷家 写字台文庫 OTANI  
 親鸞から続く代々の本願寺宗主が受け継き、また収集してきた個人的な蔵書。一応江戸時代に置いたが蒐集の初めはそれ以前かもしれない。江戸末期に第20世宗主廣如が書籍整理と目録作成などを行い、1856年に書庫が完成した後は本願寺子弟の教育にも使用した。次の第21世宗主明如の代になって、1892年と1904年の2度に分け龍谷大学へ寄贈。龍谷大の現在所蔵している貴重書は大半がこの文庫のものだという。ジャンルは広く、真宗・仏教関係は勿論、文学・歴史・自然科学・芸能等まで及び、総数も3万冊という大きな蒐集。ちなみに写字台とは宗主居室の呼称である。又、これらとは別に第22世宗主鏡如(大谷光瑞)が5千冊を他へ寄付している。

 

 □ 福井家 福井崇蘭館 FUKUI FUKUISUURANKAN
 榕亭(1753–1844)、棣園(1783–1849)、恒斎(1830–1900)と代々禁裏の御典医を務め、諸方からの診療依頼も多く巨富を築いた。万巻の書を有してたとされ上方の医書・本草書では量質ともに最大級の蔵書家。古美術収集でも名高い。明治初期には他の医家の蒐集も吸い込んでさらに蔵書は膨らんだ。
 宋版を多く所蔵し最良のものは国宝にも指定されている。子孫は京都人らしく百年近くに渡りチビリチビリと処分したため書は見事に散逸した格好だ。うち多くを所有しているのはやはり武田の杏雨書屋である。この家は面白いのでジャンル別の医書のコーナーでさらに詳しく触れる。

 

 □ 小津桂窓 文化元年8月12日 – 安政5年11月13日 Ozu Keisou 1804-1858
 松坂の豪商で、江戸や上方にも店を構えそれらの間を行き来した。国学・和歌では本居春庭を師とし、また上記の馬琴のファンとして交遊もあって後にはその書も引き受けている。桂窓の蔵書は数万巻に上ったが宣長・秋成・馬琴の自筆本を含むなど質的にも高い。これらは昭和の世になって安田善之助に行ったちなみに同姓の映画作家は子孫にあたる。

 
 □ 竹川竹斎 文化6年5月25日 – 明治15年11月1日 Takegawa Chikusai 1809-1882
 伊勢の豪商。1万余巻を擁し親族らの3千巻と合わせて射和文庫を開設した(一般公開を前提にしたため普通本中心で質は小津に及ばないとされる)。幕府御為替御用を務め江戸や大阪に支店を持って三井とも肩を並べた。その見識から小栗上野介や勝海舟などの幕府首脳の諮問にも与っている。

 

 □ 備前 河本家 KOUMOTO
 江戸時代篇で最後に紹介する河本家は、備前岡山を代表する豪商である。木村蒹葭堂を中心としたサークルとの交流もあり、その流れで記載しようかとも思ったが、江戸や上方以外の市井の蔵書家としては最大規模なのでここに置いた。
 船着町灰屋に居を構え博多や函館にも支店を持った。当主は代々書や宝物を蒐集したが、とりわけ6代立軒は茶をたしなみ浦上玉堂、木村蒹葭堂、中山竹山などとも交遊する。
 「家にない書はなんでも募り求めた」といわれ、蔵書は文化8年段階で4573部31672冊に達している。藩主池田家も大名蔵書では有数の規模だったがこの数はそれを凌駕する。これらは「経誼堂」で一般にも公開した。
 幕末に窮した際に船に詰め込んで大坂へ運び山内容堂が船ごと買い取ったという逸話が残るが、これが書なのか宝物なのか諸説あってはっきりしない。

 

 

 

 《トピック 江戸で一番多く本を持っていたのはだれか》
 このサイトでは手堅く、小山田与清・屋代弘賢・浅野梅堂あたりを5万クラスで最高レベルとしていますが、こういうのは異説が多くて、今となっては正確に確かめることは不可能です。
 特に屋代弘賢の場合、小宮山欄軒によるとじつは9万3千あったとされているし、また別の史料では10万とも書かれているので、実際にはもっとあった可能性が高いです。(塙保己一も、山崎美成によれば2万余巻ということですが、下記の足代弘訓による随筆では6万巻と書かれています)

 さて、その足代弘訓の言うところによると、江戸で一番本があるのは、①湯島の聖堂(林家の家塾、現在の東大の前身)で、以下、②守村次郎兵衛(俳人)の10万、③蜂須賀治昭の6~7万、④塙保己一の6万、⑤朽木兵庫の3万余、⑥古賀侗庵の1万、だそうです。

  すこし首を傾げるのは、足代は屋代弘賢と交友があった筈なのに、なぜ当代きってのこの大蔵書家が省かれたのかよくわからないところです。また、最大級の存在である幕府紅葉山文庫への言及がない理由も、管理人には不可思議に思えます(紅葉山文庫は江戸の人なら誰でも知ってる)。
 
 それよりも、守村次郎兵衛という人物に、興味を持たれた方が居られるかもしれません。十万という数が事実であれば、江戸期の市井の蔵書家としては小山田や屋代を抜いて最大になるからです(事実、三村竹清もかつて守村を江戸最大としていました)。 ただ、この人の蔵書に関しては他にはっきりした記述がないので、カテを設けるのはとりあえず保留にしています。
 守村抱儀(Morimura Hougi 1805-1862 抱儀の方が通りがいいのでこっちでいきます)は、江戸末期の豪商で俳人でした。国会図書館のデジタルコレクションでその句集を観る事が出来るし、また今でも短冊などが、古書店で出ることもあるようです。 豪商だけあって俳諧を成田蒼虬、画を酒井抱一、詩文を中村仏庵に学んでいますが、器用な人だったらしく、俳句だけでなく画でも名を残しています。ただ、のちに没落して越後へ逃れました。
 守村という人は、江戸の蔵前の札差です。俳句は余技です。
 冨貴を以て鳴る蔵前の札差には、守村抱儀以外にも規模の大きな蔵書家が多く、赤村屋善太郎、伊勢屋品右衛門、島喜太郎、坂本孫八などの名前を、松崎慊堂の慊堂日歴が今に伝えています。

 しかし札差は同時に浮き沈みの激しい職業です。 森潤三郎も「古書閑談」で口にしていた様に、これらの人たちの事跡については、今となってはもうまったく手がかりはないのです・・・

 

 

総目次
 
まずお読みください

◇主題  反町茂雄によるテーマ
反町茂雄による主題1 反町茂雄による主題2 反町茂雄による主題3 反町茂雄による主題4

◇主題補正 鏡像フーガ
鏡像フーガ 蒐集のはじめ 大名たち 江戸の蔵書家 蔵書家たちが交流を始める 明治大正期の蔵書家 外人たち 岩崎2家の問題 財閥が蒐集家を蒐集する 昭和期の蔵書家 公家の蔵書 すべては図書館の中へ 
§川瀬一馬による主題 §国宝古典籍所蔵者変遷リスト §百姓の蔵書
 

◇第一変奏 グロリエ,ド・トゥー,マザラン,コルベール
《欧州大陸の蔵書家たち》
近世欧州の蔵書史のためのトルソhya

◇第二変奏 三代ロクスバラ公、二代スペンサー伯,ヒーバー
《英国の蔵書家たち》

◇第三変奏 ブラウンシュヴァイク, ヴィッテルスバッハ
《ドイツ領邦諸侯の宮廷図書館》

フランス イギリス ドイツ  イタリア
16世紀 16世紀 16世紀 16世紀  16世紀概観
17世紀 17世紀 17世紀 17世紀  17世紀概観
18世紀 18世紀 18世紀 18世紀  18世紀概観
19世紀 19世紀 19世紀 19世紀  19世紀概観
20世紀 20世紀 20世紀 20世紀  20世紀概観
仏概史  英概史  独概史  伊概史

◇第四変奏 瞿紹基、楊以増、丁兄弟、陸心源
《清末の四大蔵書家》
夏・殷・周・春秋・戦国・秦・前漢・新・後漢 三国・晋・五胡十六国・南北朝 隋・唐・五代十国 宋・金・元   中華・中共    

◇第五変奏 モルガン,ハンチントン,フォルジャー
《20世紀アメリカの蔵書家たち》
アメリカ蔵書史のためのトルソ
 
◇第六変奏
《古代の蔵書家たち》
オリエント ギリシア ヘレニズム ローマ

◇第七変奏
《中世の蔵書家たち》
中世初期 カロリングルネサンス 中世盛期 中世末期

◇第八変奏
《イスラムの蔵書家たち》
前史ペルシア バグダッド カイロ コルドバ 十字軍以降
 
◇第九変奏 《現代日本の蔵書家たち》
本棚はいくつありますか プロローグ 一万クラスのひとたち 二万クラスのひとたち 三万クラスのひとたち 四万クラスのひとたち 五万クラスのひとたち 六万クラスのひとたち 七万クラスのひとたち 八万クラスのひとたち 九万クラスのひとたち 十万越えのひとたち 十五万越えのひとたち 二十万越えのひとたち エピローグ TBC

◇第十変奏 《現代欧米の蔵書家たち》
プロローグ 一万クラス 二万クラス 三万・四万・五万クラス 七万クラス 十万・十五万クラス 三十万クラス エピローグ1 

◇第十一変奏
《ロシアの蔵書家たち》
16世紀 17世紀 18世紀①   19世紀① ② ③ 20世紀① ② ③

 

 

Δ幕間狂言 分野別 蔵書家
Δ幕間狂言 蔵書目録(製作中)
 
◇終曲   漫画の蔵書家たち 1 
◇主題回帰 反町茂雄によるテーマ
 

§ アンコール用ピースⅠ 美術コレクターたち [絵画篇 日本]
§ アンコール用ピースⅡ 美術コレクターたち [骨董篇 日本]

§ アンコール用ピースⅢ 美術コレクターたち [絵画篇 欧米]
§ アンコール用ピースⅣ 美術コレクターたち [骨董篇 欧米]
 
§ アンコール用ピースⅤ レコードコレクターたち
§ アンコール用ピースⅥ フィルムコレクターたち
 
Θ カーテンコール 
閲覧者様のご要望を 企画① 企画② 企画③ 企画④


次へ 投稿

前へ 投稿

0 コメント

38 ピンバック

  1. 総目次 2019/5/9更新 – 蔵書家たちの黄昏
  2. [116] Twilight of the Book Collectors – 蔵書家たちの黄昏
  3. [298] ジャンル別蔵書家 医薬・本草書 – 蔵書家たちの黄昏
  4. 総目次  11/25更新 – 蔵書家たちの黄昏
  5. [18] 鏡像フーガ付録3 百姓の蔵書 – 蔵書家たちの黄昏
  6. [113] 現代日本の蔵書家11 十五万越えのひとたち – 蔵書家たちの黄昏
  7. [210] イスラムの蔵書家たち バグダッド – 蔵書家たちの黄昏
  8. [13] 鏡像フーガ8 昭和期の蔵書家 (1970年頃まで) – 蔵書家たちの黄昏
  9. [6] 鏡像フーガ1 プロローグ – 蔵書家たちの黄昏
  10. [10] 鏡像フーガ5 明治大正期の蔵書家 – 蔵書家たちの黄昏
  11. [104] 現代日本の蔵書家たち2 二万クラスのひとたち – 蔵書家たちの黄昏
  12. [110] 現代日本の蔵書家8 八万クラスのひとたち – 蔵書家たちの黄昏
  13. [108] 現代日本の蔵書家6 六万クラスのひとたち – 蔵書家たちの黄昏
  14. [2] 反町茂雄によるテーマ その1 – 蔵書家たちの黄昏
  15. [3] 反町茂雄によるテーマ その2 – 蔵書家たちの黄昏
  16. [122] 現代欧米の蔵書家たち 100000越え.150000越えのひとたち – 蔵書家たちの黄昏
  17. [212] イスラムの蔵書家たち コルドバ – 蔵書家たちの黄昏
  18. [209] イスラムの蔵書家たち 前史ペルシア – 蔵書家たちの黄昏
  19. [8] 鏡像フーガ3 大名たち – 蔵書家たちの黄昏
  20. [208]中世の蔵書家たち 13,14c – 蔵書家たちの黄昏
  21. [103] 現代日本の蔵書家たち1 一万クラスのひとたち – 蔵書家たちの黄昏
  22. [105] 現代日本の蔵書家3 三万クラスのひとたち – 蔵書家たちの黄昏
  23. [112] 現代日本の蔵書家10 十万越えのひとたち – 蔵書家たちの黄昏
  24. [115] 現代日本の蔵書家∞ エピローグ – 蔵書家たちの黄昏
  25. [16] 鏡像フーガ付録1 川瀬一馬による主題 – 蔵書家たちの黄昏
  26. [206] 中世の蔵書家たち 9, 10c – 蔵書家たちの黄昏
  27. [204] 古代の蔵書家 ローマ – 蔵書家たちの黄昏
  28. [102] 現代日本の蔵書家たち0 プロローグ – 蔵書家たちの黄昏
  29. [106] 現代日本の蔵書家4 四万クラスのひとたち – 蔵書家たちの黄昏
  30. [202] 古代の蔵書家 ギリシア – 蔵書家たちの黄昏
  31. [205] 中世の蔵書家 5, 6, 7, 8c – 蔵書家たちの黄昏
  32. [207]中世の蔵書家たち 11 12c – 蔵書家たちの黄昏
  33. [107] 現代日本の蔵書家5 五万クラスのひとたち – 蔵書家たちの黄昏
  34. [119] 現代欧米の蔵書家たち 20000クラスのひとたち – 蔵書家たちの黄昏
  35. [15] 鏡像フーガ10 すべては図書館の中へ – 蔵書家たちの黄昏
  36. [7] 鏡像フーガ2 蒐集のはじめ – 蔵書家たちの黄昏
  37. 総目次  4/15更新 – 蔵書家たちの黄昏
  38. 総目次 4/15更新 – 蔵書家たちの黄昏

返信する

© 2021 蔵書家たちの黄昏

テーマの著者 Anders Norén

Translate »