「外人ではE・サトー、B・チェンバレン、F・ホーレーは、それぞれに立派な蒐集家で、質に於いても優れて居ります」という引用の通り、初期の日本研究者が膨大な文献を集めていたことは従来からよく知られていました。また、欧米人が滞在先の現地で大きなコレクションを形成していた例としては、中国でも幾つか重要な存在があります。
この頁は3つに分けて記述します。
まず、 Ⅰ 明治期の欧米人の書物収集家
次に、 Ⅱ 昭和期の欧米人の書物収集家
最後に Ⅲ 近代中国の欧米人書物収集家
アーネスト・サトウとバジル・チェンバレンは前頁の 5 明治大正期の蔵書家 と同時期にあたり、フランク・ホーレーは次頁の 7 昭和の蔵書家 の同時期にあたりますが、この頁に一緒にまとめることにします。
楊守敬や黎庶昌のように清朝末期の人士による膨大な日本書籍の購入は、彼らの滞在期間が割合に短かかった事、またその蒐集も単に日本関係にとどまらず、彼ら自身が中国の蔵書史の上で欠かせない様な大きな存在である事などのため、中国篇に置く事にしました。方功惠や葉徳輝の様に自らは来日せず人を派遣して購入させた蔵書家がいる事もそうするに至った一因です。
逆に、ジュゼッペ・ロスやバックハウスなど、中国の国内で大きな収集を行った欧米人は、「経歴や目的意識の点で、日本におけるサトウやホーレーと同じタイプの蔵書家」という事で、中国篇には置かず、(日本とは全く関係ないんですが)この項に一緒にまとめて記載しています。モリソンの様に漢籍がほとんどなく専ら中国に関する欧語文献ばかり集めてた人がいる事もそうするに至った一因です。
川瀬一馬による日本の蔵書の通史では、この手の外人蔵書家の項にサトウも楊守敬もまとめて記載していて、本来その方が筋の通った記述なのでしょうが、このサイトでは世界各国を対象にしてるのでこういう変則的な構成になってしまいました。
以下、例によって反町茂雄の文章で挙げられていた蔵書家を■で、ブログ側が追加した蔵書家を□で表していきます。
〈 Ⅰ 明治期の欧米人の書物収集家 〉
さて、反町さんが挙げた明治期の日本文献蒐集家は以下の二人ですが、それに一人を追加しました。
■ アーネスト・サトウ Ernest Mason Satow 1843-1929
駐日公使を務めたイギリスの外交官で、明治期を代表する日本専門家。四半世紀を日本で過ごし、「一外交官の見た明治維新」「日記」など、わが国で親しまれている著書もある。
日本で買い集めた蔵書は4万冊に上り、珍本稀書も多かった。コレクションの形成された時期は、大名蔵書が崩壊して古書価格が崩落した日本の古書史上での第一期の黄金期にあたる。晩年は枢密顧問官に任ぜられ、中産階級出身者としては異例の出世を遂げている。
外交官としては維新の三傑や幕府側の勝海舟と頻繁に密談を重ねて維新前後の政治の動向に大きな影響を与え、かつ威圧的な交渉も知られるサトーだが、日本研究者としては稀覯本趣味が高じて「日本印刷史」など書誌学的な業績が中心になった。現在大英図書館にあるサトーの旧蔵書中には日本人が驚くような珍籍が豊富にあり、ノルデンショルドのそれとは比較にならない。
■ バジル・ホール・チェンバレン Basil Hall Chamberlain 1850-1935
お雇い外国人として来日し東京大学で教師(事実上の教授だが外国人にその呼称は許されなかった)を務め、滞日はおよそ40年に及んだ。この時期では前記サトウと並ぶ日本研究者とされる。蔵書印は英王堂。サトウの蔵書はケンブリッジや大英図書館に寄贈されたが、チェンバレンは門弟の上田万年・佐々木信綱・杉浦藤四郎などにかなりの部分を譲って帰国した。
所有してた日本の古典籍の総数は六千部で1万2、3千冊と推定される。
□ ウィリアム・ジョージ・アストン William George Aston 1841–1911
サトー同様イギリスの外交官で、チェンバレン同様近代的な日本語学を開拓した一人である。蔵書はケンブリッジ大学にほぼそのまま保存されており、1400~1500部で、4~5千冊ほど。やはり古典籍が豊富であり善本に富んでいる。上記二人に比べ規模がやや小さいので反町は省いたようだ。ただ晩年にサトウから譲ってもらって1万ほどになったという。
以上は明治時代を代表する三人であり、同じぐらい有名なのにノルデンショルドという人がいます。こちらはスウェーデンの著名な探検家が日本へ寄港した折に7000冊集めたというもので、わずかな期間でこの量はすごいんですが、稀覯書はさほど多くはなく当時ごく普通に市販されてる一般書が中心でした。加えてノルデンショルド自身は日本語もわからずバイヤーによるセレクトのようです。それでも向こうの図書館に寄贈されあの当時としては珍しい日本書籍の大きなコレクションになりました。なのでこの人は例外に置いた方がいいでしょう。
明治期にはケンペルやシーボルトの収集も知られていますが、量の点でここでは控えておきました。
そして反町さんが昭和期から挙げた圧倒的な存在が、下記のホーレーです。
〈 Ⅱ 昭和期の欧米人の書物収集家 〉
■ フランク・ホーレー Frank Hawley 1906-1961
蔵書家ホーレーに関しては「書物に魅せられた英国人」という伝記が出版されている。それによると、
リバプール大、ケンブリッジ大、パリ大、ベルリン大などで学び、パリ大ではペリオ門下。ロンドン大では満州語の教師。この後、訪英した千葉勉東京外大教授によって外大の講師に招聘され来日。他に東京理科大や京都三高でも教えた。
1939年、英から情報局のレッドマンが来日して英国文化研究所を設立するとホーレーがその長を務めた。イギリス大使館情報委員会の委員も兼任する。これに対して朝日など日本メディアは彼をスパイだと報道した。1941年にホーレー夫妻は国家総動員法に基づき逮捕され、蔵書も没収。慶応大学へ売却された。(返還されたときは2割が欠本でホーレーの蔵書リストには「慶応大学にまた奪われた」という書き込みがあった)
帰英してタイムズに入社する。これは元駐日英大使クレーギー、ピゴット将軍、レッドマンなどの推薦だった。本国ではBBCの日本語放送顧問や英国戦時外務省情報担当を務める。
終戦後再来日するが、この頃にもホーレーはマッカーサー批判で追放されそうになっている。のち京都山科に居を定めた。以上が簡単なホーレーの略歴である。
コレクターとしては、戦前は蝦夷、アイヌ、沖縄、朝鮮の古辞書・古活字本が多く、戦後は重要文化財級の稀覯本をターゲットにした。
外国人の蒐集家で貴重なものを最も多く集めたのはホーレーであり、また値段を気にせず買ったため珍書の多い点でもホーレーが抜きんでている。重要美術品が数十で重文・国宝もかなり多かったといわれる。反町によると古活字本の蒐集で200種を超えるのは安田、徳富、高木文庫だったが、ホーレーの150種は質に優れていたため徳富・高木に勝り安田に並ぶという。終戦直後に華族の蔵書が崩壊して古書価格が最も低落していた時期に、もっとも買いに走ったのがホーレーと中山正善だった。
ホーレーの購買意欲はすさまじかったらしく、反町があんまりホーレーばかりに買われてもあれだから「もう売れました」とごまかすと「嘘をつくんじゃない。目録に載せてそんなに早く買い手が現れるはずはない」と押し切られた話もある。
しかしホーレーコレクションはその寿命が非常に短い点でも異彩を放っている。その蒐集は朝鮮戦争の頃に頓挫した。昭和21年ごろから26年ごろがピークで、しばらく安定し下降線に移るというのが業者であった反町の見方である。買う時に金に糸目をつけなかった反面、売る時もかなり高い価格でないと渋っていたという話である。
戦後の外国人蒐集家としては、ほかにボクサーやアンベルクロード神父などの名前もよく云々されるが、質・量共にホーレーが圧倒的なのでカテは設けなかった。
《ホーレー雑感》
スパイは概して勉強好きなようで、あのゾルゲなんかは逮捕時家には800冊から1000冊の蔵書があったという話です。
戦前のホーレーも、冊数は1万7500冊に及び、普通の民家を借りてたものだから家じゅう本棚であふれていました。しかし、戦後すぐの収集活動は中山正善を向こうに回す程のさらに徹底的なものでした(この時代は「洋服一着の値段で重要美術品指定のものが買え、二、三着で国宝が買えた時代」だそうです)。前記サトウやチェンバレンが大量に買い集めた時期は日本の古書史上における第一期の黄金期でしたが、ホーレーのこの収集活動は、戦後に公家蔵書が崩壊した第二の黄金期にあたります。
こういうのにあまりいい気持のしない人もいらっしゃるかもしれませんが、そこはお互いさまというか、洋の東西繰り返してきた事だと思います。日本だって、清朝が滅亡した際には文求堂の田中慶太郎があちらに渡って大量の漢籍を買いつけてきて、日本でそれを内藤湖南なんかが買っていました。
それよりホーレーの蒐集には独特の癖があってそっちのほうが気になります。
前期のコレクションと後期のコレクションに非連続的な隔たりがあり、内容が大きく違っているのは、たとえば安田善之助がそうでした。安田の場合は関東大震災で書物を失ってその後、一からまた集めはじめたわけで、江戸文学中心の艶やかな印象の前半に対し、古写経に向かっていった後半はかなり渋いです。
ホーレーもまた、前半の蒐集は戦前に逮捕された際没収され(戦後返還されます)、再来日後に新たに集め始めました。戦前のは、いかにも日本研究者といった感じの内容ですが、後半は日本の大物蒐集家に交じってというか、(中山正善を例外として)それらすべての上に立ってというか、どこから資金が出たのか訝しげに感じるくらい貴重なコレクションを形成します。
これは単に趣味嗜好の変化というよりも、集める目的に変化があったのではないかという気がします。ホーレーが変わってるのは、何年か保持して、すぐに売りさばいてることです。これではまるで本の間に挟まった何かの栞を探していて、それが無かったので返します、というような風にも見えてきます。
〈 Ⅲ 近代中国の欧米人書物収集家 〉
以下は、清末民初に中国へ滞在して、後々伝説になるぐらいその地で多くの本を集めた蒐集家たちです。
こうした人たちまでこの頁に置いたのは、下記のモリソン蔵書が日本へ渡って、次のページで語る東洋文庫の核となっため、叙述の流れの面で都合が良かったという事もあります。
□ ジョージ・アーネスト・モリソン George Ernest Morrison 1862-1920
本来は中国篇に載せるべき存在かもしれないが、欧米人による滞在先の現地に関する文献の蒐集という点で、この頁で取り上げてきた人物と同じタイプの蒐集家であり、また蔵書の売却先が三菱財閥総帥の岩崎久弥であることもあって(七年ほど後東洋文庫として財団法人化される)この項に置く。
ジョージ・アーネスト・モリソンは、タイムズの中国特派員で、袁世凱の総統府の顧問も務めたオーストラリア人。医学博士でもあり、中国滞在は長期に及ぶ。単なるジャーナリストというより、諜報的な任務も担っていた様子も伺え、それは地図・地形図の類が多かった蒐集内容からも多少見て取れないこともない(日本に到着した蔵書を利用するため真っ先にアクセスしてきたのは東洋学者ではなく陸軍将校だった)。
蔵書数はおよそ2万5千で、ほとんどが中国本体に関する欧文文献。これはモリソン自身が漢語を解しなかったためであろう。元のコレクションに漢籍がどの程度あったのかは管理人では分かりかねる(あったとすれば本国に持ち帰ったか?) 蔵書処分の理由は「子女の教育費のため」とのこと。ただ、北京から東京に運ばれる際、水難事故で多くの本が損なわれしまった事を後で知って、「ジャップめが、輸送費をケチりやがって」とか言って新聞紙上で怒りを表していた。
のちに東洋文庫主事となる石田幹之助がモリソンの書庫内を調査した時の回想があるので、長くなるがここに引用してみる。
「さうして実に驚きました。有ること有ること、学生時代に白鳥先生や坪井先生から伺っていました西洋学者の著書論文が一々そこにあるではありませんか。講義に引合ひに出されるものをせめて、一つか二つでも実物にお目にかかっておきたいと、授業が終わると図書館に行って書架の間を物色して見ましたが、めったにそれはありませんでした。それがどうでせう、ここには片端からそれが列んでいるのです。アベル・レミュザ、クラブロートなどの古いところから、レッグ、ワイリーを経てヒルト、シャヴァンヌ、ラウファーなどに及ぶまで、殆どないものはなしという壮観でした。
確かに私には壮観でありました。その頃私が少々興味を持ってゐた志那や中央アジアの地理・地質の研究の一括して置いてある処を覗くと、リヒトホーフェンやウィリス、ブラクウェルダーの中支地質の調査などは大学にあったので珍しくありませんでした、ハンガリーのペラ・シェチェニイ伯西部志那探検の踏査報告などはここで初めて実物を手にすることが出来ました。即ちあのローツィやクライトナーの書いたものに初めてお目にかかったわけなのです
カーネギー研究所から派遣したパンベリーの中亜調査記も例のアナウの「文化層」を掘り当てた時(1903年)の報告、ハンティントンやフーバート・シュミットを伴った時の報告は大学にあったので知ってゐましたが、安政何年かにパンベリーがわが幕府に聘されて北海道を調査し、シベリアに渡って支那にやって来た際の報文、これには胡渭の「兎貢錐指」に基づく黄河下流の流路変遷沿革図が附いてゐますが、これがあったにもびっくりしました。
リヒトホーフェンの高弟のティーセンがその師の大著の精髄ともいうふべき支那地理の概説「十八省の国、支那」の第一巻にもお目にかかることが出来ました。それからその近所を手当たり次第に探しますと、有るわ有るわ、フィルヒナー、ターフェル、ブルジェワルスキー、オブルチョフ、ロボロフスキー、グルーム・グルジマイロ兄弟、ポターニン、フェジェンコ、メルツバッヒャーなどゾロゾロ出てくる始末です。またかねて見たいと思っていたシュラーギントワイト兄弟の業績である、横一メートルもある特大の図版に、雪を頂いたヒマラヤの峰々を描いた精巧な着彩石版画の揃ってゐる「インド及び高アジア」もありました。
かう何でもあっては驚くとか感心するとかいふ段は通り越して、こんなにあっては大変だ、資料が足りないからなんて逃げ口上はもう通用しないといった感じに捉へられてしまひました。モリソン氏は稀覯書を手に入れた御自慢話なども交へて色々と重要な書物の説明をしてくれましたが、殆ど上の空に聞き流して唯々売るというなら何としてもどこか日本に買つて置いて貰ひたいとふ願でいっぱいの胸を抱いて書庫を辞したので有りました。」
この後帰国した石田は各方面に訴えかけてその結果、岩崎久弥男爵がモリソン文庫として引き受けることになった。
《トピック1 石田幹之助》
引用がかなり長くなってしまいました。コレクションの様子が手に取るように分かる詳細な文章ですね。このサイトは個々の蔵書内容にはあまり立ち入らない方針ですが、たまにはいいでしょう。
石田は、岩崎がモリソン文庫を引き受ける以前からその調査・評価を行っており、上記引用からも垣間見える蔵書内容を記したカタログを有名な癸未氏に見せて、コレクションを購入すべきかどうかアドバイスをもらいに行った話が残ってます。癸未というのは栗本癸未といい、多くの学者が顧問格にしていた丸善洋書部の名物店員で 明治大正期から昭和初期までの丸善の上得意には知らぬものはなかったほどの存在でした。(昔の古本屋は偉かったらしく、洋書での栗本癸未の他にも、漢籍では文求堂の田中慶太郎がこういう存在として君臨していました)
彼はそのカタログの抜き書きをみて「石田さん、この持ち主は外人ですか」「また日本に居る人ですか? 海外にいる人ですか?」と聞き返し、石田が「確かなことは知らないんですが、外人らしいように聞いています」と答えたところ、彼は「もしそれが外人で日本の近くに居る人だとすると、北京のモリソン以外にこういう本を持ってゐる人はいませんね」とズバリ持ち主を見破ったといいます。さすがにどのような本を推薦するかで多くの学者の論文の内容を左右してきただけの見識を感じさせられるエピソードですが、次の時代には、この石田自身が東洋文庫主事として多くの研究者の来訪を受け、参考文献を指示して彼らの論文の内容を左右する、そのような存在になっていました。
「硝子の開きのついた本棚に囲まれた主事室の一隅の大きなテーブルの上に、新刊の図書や雑誌が山と積まれている。英語・ドイツ語・フランス語・ロシア語・スペイン語・ポルトガル語・イタリア語、時にはラテン語のもの、それに漢籍や洋装の支那の新刊書。その書籍の山を前に、和服に袴姿の博士が悠然と朝日をくゆらせながら、椅子に背を持たせ、手にした洋書に目を走らせている。灰皿はもう既に一杯、テーブルの上のライティング=パットの一隅には訪問者の名刺が、これまた山と積まれている。小使が鞠躬如として入って来て、名刺を示し、新しい来訪者のあることを告げる。博士は隣の応接室に通すことを命ずる。人によってはそのまま主事室につれて来させ、書物に目を通しながら応接する。来客には多くの外国人もいるが、その用件の大部分は自分の研究題目を述べて、それに関する資料や参考書の指示を求めるものである。博士は一々それに応じ、事細かに教えられる。そして小使を呼んで、書庫の何階の入口から何番目の棚の、下から何段目の右から何冊目に、これこれの装幀のしてある、この位の厚さの本があるからと命ずる。小使が忽ちそれを持って来るところを見ると、本は正に博士指示の所にあったのである。」(榎一雄 増訂長安の解説より)
石田幹之助は1892年東京に生まれ1974年に亡くなった東洋史学者で、白鳥庫吉の高弟。師の著作・論文などに関しても書いた本人以上に詳しかったといいます(笑)。26歳から43歳までの間、東洋文庫の主任・主事などを務め、実質的にこの文庫の学術面での責任者でした。
芥川龍之介とは同級であり、もともと漢学者か東洋学者に進みたかった芥川がその道を断念した理由が、クラスで一番だった石田幹之助の存在だったのは有名ですね(芥川は東大の仏文科を2番で出ていますが、石田も東洋史科を首席で卒業しています)。芥川にそういう道の魅力を教えたのも石田だったし、作家になってからも例えば「杜子春」の素材などは石田による提供です。
「私には芥川氏は文学者というよりは、頭の鋭い、文章の上手な学者の様な気がする」から始まる榎一雄の文章は、この両者の資質の共通面を的確に描写しています。確かに芥川龍之介には求心性のある独自の構想力があまりなく、その作品の多くは骨格を古典から取ってきたものが多い。主情的な感情の発露もさほどみられない。羅生門・鼻から地獄変・杜子春に至る初期の代表作は、いずれも王朝時代や中国の古典を題材としており、古典に考証を加え、心理分析を加えて、小説の形にした趣がある。これは歴史の論文と極めてよく似たスタイルである。一方、石田の方も学者にしては名文家過ぎ、その著述は文学作品の香りが立ちすぎるきらいがある。そして、芥川は作品のほとんどが短編であり、長くても中編どまりで、終に長編を一作もものにしないまま世を去った事はよく知られている。石田も80年の長い生涯に400近い論文やエッセイを残しているが、いずれも短いものばかりで、まとまった体系的著作と言えるものは「欧人の支那研究」一冊しかない。論文のような小説を書く作家と、文学作品のような論文を書く学者。結局、この二人の秀才が「書いたもの」は非常によく似ている。
榎一雄さんの文章を我流で脚色しすぎた感もありますが、両方の著述に親しんだ自分にとってこの分析は納得のいくものでした。
石田幹之助という人は歯に衣着せぬところがあって、それで池内宏の怒りを買ったり、書くものも上の引用からもわかる通りペダンティックな趣が強く、宮本顕治の妻からも「キザな人」とか言われています。首席卒業者で、学派の総帥である白鳥庫吉に密着していて、驚異的な博覧強記ぶりには白門は勿論の事、京都支那学派でも匹敵する人がなかったのに教授になれなかったのは、一級上に和田清がいたためばかりとも言えないようです。
主著は論文集「東亜文化史叢考」の大冊。生涯に残した厖大な論文の中から自身で選んだ37篇が収録されています。(全四巻の著作集も出ていますが、こちらは「東亜文化史叢考」からこぼれた雑記などが中心です)
あるエッセイで「私の一冊」と題して生涯に読んだ本の中から選んだのは、エルネスト・ラヴィス「欧州政治史概説」とランケの「世界史進講録」の二冊でした。二冊選んじゃう点はともかくとして、どちらも誰でも知ってるような一般向けの概説書なのがやや意外でした。地位から言っても語学力から言っても20世紀前半の日本人で「世界に数冊しかないような珍籍」をこの人ほどたくさん手に取って内容に目を通した人はいないだろうし、上記主著に掲載された論文などでは耳にした事のないような典籍をガンガン挙げてくる人ですが、一冊ともなれば案外そういうセレクトなのかなとも思いました。
欧米人による中国語文献の収集者としては最初期のこの二人も付け加えておきましょう。
□ ジェームズ・レッグ James Legge 1815-1897 (中国名 理雅各)
イギリスの宣教師で中国学者。四書五経の最初期の英訳者でオックスフォード大学の初代中国学の教授に就任している。蔵書は同大学に入った。
□ トーマス・ウェード Thomas Francis Wade 1818-1895 (中国名 威妥瑪)
イギリスの外交官で中国学者。アヘン戦争の時に来中して以来、上海領事や駐清公使を歴任した。帰国後現地で集めた文献4304冊をケンブリッジ大学に寄付している。
1888年ケンブリッジの初代中国学教授に就任し、イギリスにおける中国学の草分けの一人といえる存在である。中国語の発音をラテン文字によって表す「ウェイド式」を発明し、その中国語教科書は黎明期のスタンダードとなった。
その漢籍コレクションが特に規模が大きかったのは以下の二人でしょう。(欧米人の漢籍コレクションで最大なのは多分 Robert des Rotoursあたりだと考えていますが中国滞在は短くもっぱらフランス本国における蒐集であったのでこの人はフランス篇に置く予定です)
□ エドモンド・バックハウス Edmund Trelawny Backhouse 1873–1944
イギリスの中国学者。上記モリソンと同時期に中国に滞在し、中国語のできないモリソンを補佐した。モリソンが中国に関する欧米文献を集めたのに対し、彼は漢籍を蒐集している。帰国後、オックスフォードのポストを狙ってボドリアン図書館に厖大な漢籍写本を寄付したという。
このバックハウスに関してはトレヴァーローパーに「北京の隠者」という伝記があり邦訳もされた。管理人は未見だが、糞味噌に書かれてるのが有名な本で読んだらマイナス面ばかり紹介しそうになるので当面読む予定はない。
□ ジュゼッペ・ロス Giuseppe Ros 1883-1948
イタリアの広東総領事。民国成立頃から40年にわたり中国に滞在した。
モリソン同様、欧米人による中国現地での文献蒐集であるが、数多いこのタイプの蔵書のうちでは質量ともにおそらく最大とみられる。日本側がこれを引き受ける話が出ていた点でもモリソンと共通している。ただ、モリソンが洋書を対象にしていた(日本で知られるかぎりは)のに対して、こちらは大半が漢籍であった。台湾総督府へ譲渡する話が出た際、調査に入った神田喜一郎によると7、8万という厖大な数であったという(パンフレットや一枚刷りも含めると10万に上った)。その他数千にわたる動植物の標本や、陶器・漆器・玉器の類まで多く、コレクションは博物館の体をなしていた。
一般に西洋人の漢籍収集は経史子集の四部のうちで史部に傾く傾向が強いが、この蒐集もその例にもれず、殊に中国華南部に重点が置かれていたようだ。揃いにくい中国の地方志の充実は特記される。孤本などの稀覯書の多さのみならず学問的にも利用価値の高いもの中心で、蒐集者の見識が伺える内容である。
これほどの文庫であるが、ロスはこれ以前にも満鉄大連図書館などに大量に書を売っていたので、彼の蔵書の全貌は計り知れない。
この個人文庫の最後は、太平洋戦争の勃発により譲渡の話は流れて結局ロスが本国へ持ち帰ったといわれる。ロスは蔵書印を捺すことはなかったし、目録も今のところ伝えられていない。
ただこれには異説がある。
高田時雄「ジュゼッペ・ロスとロス文庫」によると、前記神田喜一郎が検分した1944年は本国のムッソリーニ政権が崩壊した後で、むしろ神田は日本軍がこれを略奪するために検分によこした可能性があり、ロスの後輩にあたるジュリアーノ・ベルトゥッチョリローマ大教授の言では、略奪されたロスの蔵書は日本への移送中にアメリカの潜水艦によって沈められたという。
総目次
◇まずお読みください
◇主題 反町茂雄によるテーマ
反町茂雄による主題1 反町茂雄による主題2 反町茂雄による主題3 反町茂雄による主題4
◇主題補正 鏡像フーガ
鏡像フーガ 蒐集のはじめ 大名たち 江戸の蔵書家 蔵書家たちが交流を始める 明治大正期の蔵書家 外人たち 岩崎2家の問題 財閥が蒐集家を蒐集する 昭和期の蔵書家 公家の蔵書 すべては図書館の中へ
§川瀬一馬による主題 §国宝古典籍所蔵者変遷リスト §百姓の蔵書
◇第一変奏 グロリエ,ド・トゥー,マザラン,コルベール
《欧州大陸の蔵書家たち》
近世欧州の蔵書史のためのトルソhya
◇第二変奏 三代ロクスバラ公、二代スペンサー伯,ヒーバー
《英国の蔵書家たち》
◇第三変奏 ブラウンシュヴァイク, ヴィッテルスバッハ
《ドイツ領邦諸侯の宮廷図書館》
フランス イギリス ドイツ イタリア
16世紀 16世紀 16世紀 16世紀 16世紀概観
17世紀 17世紀 17世紀 17世紀 17世紀概観
18世紀 18世紀 18世紀 18世紀 18世紀概観
19世紀 19世紀 19世紀 19世紀 19世紀概観
20世紀 20世紀 20世紀 20世紀 20世紀概観
仏概史 英概史 独概史 伊概史
◇第四変奏 瞿紹基、楊以増、丁兄弟、陸心源
《清末の四大蔵書家》
夏・殷・周・春秋・戦国・秦・前漢・新・後漢 三国・晋・五胡十六国・南北朝 隋・唐・五代十国 宋・金・元 明 清 中華・中共 附
◇第五変奏 モルガン,ハンチントン,フォルジャー
《20世紀アメリカの蔵書家たち》
アメリカ蔵書史のためのトルソ
◇第六変奏
《古代の蔵書家たち》
オリエント ギリシア ヘレニズム ローマ
◇第七変奏
《中世の蔵書家たち》
中世初期 カロリングルネサンス 中世盛期 中世末期
◇第八変奏
《イスラムの蔵書家たち》
前史ペルシア バグダッド カイロ コルドバ 十字軍以降
◇第九変奏 《現代日本の蔵書家たち》
本棚はいくつありますか プロローグ 一万クラスのひとたち 二万クラスのひとたち 三万クラスのひとたち 四万クラスのひとたち 五万クラスのひとたち 六万クラスのひとたち 七万クラスのひとたち 八万クラスのひとたち 九万クラスのひとたち 十万越えのひとたち 十五万越えのひとたち 二十万越えのひとたち エピローグ TBC
◇第十変奏 《現代欧米の蔵書家たち》
プロローグ 一万クラス 二万クラス 三万・四万・五万クラス 七万クラス 十万・十五万クラス 三十万クラス エピローグ1 2
◇第十一変奏
《ロシアの蔵書家たち》
16世紀 17世紀 18世紀① ② ③ 19世紀① ② ③ 20世紀① ② ③
Δ幕間狂言 分野別 蔵書家
Δ幕間狂言 蔵書目録(製作中)
◇終曲 漫画の蔵書家たち 1 2
◇主題回帰 反町茂雄によるテーマ
§ アンコール用ピースⅠ 美術コレクターたち [絵画篇 日本]
§ アンコール用ピースⅡ 美術コレクターたち [骨董篇 日本]
§ アンコール用ピースⅢ 美術コレクターたち [絵画篇 欧米]
§ アンコール用ピースⅣ 美術コレクターたち [骨董篇 欧米]
§ アンコール用ピースⅤ レコードコレクターたち
§ アンコール用ピースⅥ フィルムコレクターたち
Θ カーテンコール
閲覧者様のご要望を 企画① 企画② 企画③ 企画④
35 ピンバック