[特別篇]
シャルル五世の主題による変奏曲
- フランス王室の蔵書 ビブリオテーク・ナショナルへ -
フランス最大の集書はやはりフランス王家の蔵書です。これは近世篇の中で各世紀ごとに分けて扱うよりも、まとめて沿革を述べた方が分かりやすいので、別にページを設けました。
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フランス王家(ヴァロア朝→ブルボン朝)
シャルル五世
ルイ十一世
シャルル八世
ルイ十二世
フランソワ一世
アンリ二世
アンリ四世
ルイ十四世
ルイ十五世
ピピン以来の歴代フランス王の蔵書は、本人が亡くなると、すぐに四散してしまうようなものでした。
中世篇 カロリング・ルネサンス で語った8世紀のカール大帝(Charlemagne 742–814) の蔵書は、全欧の書物史に甚大な影響を及ぼした極めて重要なものですが、当人の没後すぐに散逸し、息子のルードヴィッヒ敬虔帝(Ludwig I.778-840)の文庫も同様です。
それ以前に、13世紀より前の時代のフランス国王は基本的に字が読めないので、仮に学芸やキリスト教に関心のある君主がいても、これは臣下に読ませるより他なく、シャルルマーニュの図書館を別にすれば、「王家の蔵書」と言ってもまあそういう程度のものだったのでしょう。
しかし、その13世紀あたりからフランスでも書物に関心のある、蔵書家といってもいい国王が登場します。聖王ルイ九世(Louis IX 1214-1270)です。
ただ、彼の文庫も史書に簡単な記述が残っている程度なので、やはり次の14世紀に登場したシャルル五世こそが、その後の累代の王室蔵書の礎を置いた、と言う事ができるかもしれません。とにかくカペー朝のうちは継続的な王室文庫の未だ存在しない時代なので、ヴァロア朝から話を始める事にします。
主題 シャルル五世
当時、ヨーロッパでリチャード・ド・ベリーに次ぐ数を持っていたであろうと思われるこの国王については、すでに 中世篇 でカテゴリーを設けているのですが、ここではもう少し詳しく解説してみます。
まず、父の善良王ジャン二世(Jean II 1319-1364)が愛書家だったため、その三人の息子のシャルル五世(Charles V 1338-1380)、べリ公ジャン(duc de Berry Jean Ⅰ 1340-1416)、ブルゴーニュ公フィリップ(duc de Bourgogne Philippe II 1342-1404)はいずれも当時愛書家として知られた、というところまではそこで書きました。王位を継いだシャルルは、父の残した小さな写本文庫も引き継いで、そこに自ら多くの図書を加え、これをルーブル宮へ移します(1367年)
このルーブルの王室文庫 (Bibliotheque du Roi)では、書物が三層の大堂のそれぞれの卓上に配列され、司書のクロード・ギル・マレー(Gilles Malet)によって管理されていました。蔵書の7分の1を、占星術、天文学などが占めていたのは、教養がある半面で迷信深かったとされる王の性格を反映していたのかもしれません。ここにはアラビア語からの翻訳文献も何点かあったそうです。
シャルルには当代一の学者ニコル・オレームが側近として仕えていたので、蔵書の充実にはその影響もあったと推測する事もできます。ピュリダン → N・オレーム → P・ダイイ → ジェルソンと続く師弟関係は、中世末期のフランスにおける最良の知的伝統であり、彼らはいずれも王室と関係を持ちましたが、殊にニコル・オレームとシャルル五世のそれは密接で、時期も王の王太子時代までさかのぼるものでした。
今の時点からみると、この文庫の本の量はたかだか1000冊程に過ぎません。それでも、前述のように数が分かっているものとしては、900年に渡る長い中世で第二位です。
彼の死後、次代のシャルル六世は拡充に努めたものの、精神疾患(「ガラス妄想」という中世西欧に特有のもの)を持っていた事から父の弟たちが国政に参加するようになり、やはり愛書家だった彼らによって貴重なものが書庫から抜かれてしまいます。後に後見人のベッドフォード公に売却してしまい(1424年)、公の死後散逸しました。次のシャルル七世はルーブル文庫を復興しようとはしませんでした。
シャルル五世の二人の弟、ぺリ公ジャン、ブルゴーニュ公フィリップも彩色写本を多く有し当時では指折りの書庫を誇っていました。
ことにぺリ公ジャンは、絵師のランブール兄弟を抱えて、多くの装飾写本を作らせています。その中には現在フランス学士院所有の「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」があり、これは数ある中世装飾写本のうちでも「ケルズの書」と並んで最美とされていますね。
ベリ公ジャンの蔵書は後の15世紀に王室に入りましたが、ブルゴーニュ公フィリップの孫にあたるブルゴーニュ公フィリップ三世(Philippe III 1396-1467)はかなりの規模の蔵書家で、600冊もの写本を所有していたと言われています。彼は名前が紛らわしいですが国王ではありません(カペー朝のフィリップ三世とは別人です)。しかし中世末期からルネサンス初期にかけてのフランスの蔵書家としては随一の存在であり、イギリスから亡命していたエドワード4世がのちに英国王室に本格的な文庫を創始したのはその影響によるものだという推定もあります。所蔵数も、シャルル五世の文庫が散逸した以後の王家よりも上だったと思われます。
第Ⅰ変奏 ルイ11世による王室図書館の創設(1480年)
この当時までのフランス国王の蔵書は王室文庫というより、国王個人の個人的所有物という色彩が強く、王の没後は相続などで親族その他の関係者へ遺贈されて分散する事が通例です。なのでコレクションとしては不安定な存在であり、シャルル五世のルーブル文庫もその例に漏れません。彼のことを「王室蔵書の礎を置いた」と言って置きながら、そこはイマイチ徹底しないきらいはありますが、継続的な施設としてはルイ11世(Louis XI 1423-1483)が1480年に創設した王室図書館を初めとした方が良いかもしれません。18世紀末に革命政府に没収されるまでの継続的な仏王室蔵書、と言えばこちらがその始まりになります。
ただ、シャルル五世という存在が集書の面で後のフランスの王たちに与えた影響は大きく、ルイ11世も1461年に即位した後、まずルーブル宮に文庫を再興しました。この文庫には1472年ペリ公の蔵書が加わり、その後ブルゴーニュ公の蔵書も加わります。
第Ⅱ変奏 シャルル八世,ルイ12世による蔵書の拡大
シャルル八世,ルイ12世の時代には、主にイタリア遠征での蔵書没収によって王室文庫はその量を大きく拡充しています。
まずシャルル八世(Charles VIII 1470-1498)は、ナポリのアラゴン王の文庫を没収し、フランス王室の図書館に入れました。この蔵書は先王Rolert of Anjouによる創設で、ペトラルカやボッカチオのパトロンだっただけあって稀覯本に富んでいました。
またシャルル八世の時に王室文庫はアンボワーズヘ移転されています。
続くルイ12世(Louis XII 1462-1515)は、ミラノ侯のパヴィア宮殿から蔵書を接収しました。ミラノ侯ヴィスコンティ・スフォルツァ(Visconti Sforza)は1400年までに1000冊の個人蔵書を集めた名だたる蔵書家であり、そこにはペトラルカ所蔵のものも含まれていたといいます。15世紀にも大きく拡大したこの文庫には司書バルトロモ・カルコ(Bartolomo Calco)による目録が存在します。
またルイ12世は、この他にもグリュテュイーズ(De La Gruthuyse)のコレクションも購入しています。
彼はさらにジャヌス・ラスカリス(Janus Lascaris)がギリシアのオトス山の僧院から持ち帰った200点に上る写本も得ましたが、こちらはのちへメディチ家に行きました。
しかしフランスでは、王族のオルレアン公がブロアに作った図書館が、王室のものよりも点数の点でさらに勝っていました。同家の出身だったルイ12世は自らの家に伝来したこのオルレアン蔵書と、王室文庫を一つに合わせる事に決定し、1500年ごろ全蔵書をブロアへ移します。ルイ11世が王室図書館を設立して以来、度重なる併呑によりこの時点までに1890冊に増えていたフランス王室の蔵書は以後ブロワに居を定める事になります。
第Ⅲ変奏 フランソワ一世 納本制度
先代のルイ12世の図書館1890冊を継承したフランソワ一世(François I 1494-1547)の治世では、1537年のモンペリエの勅令により、フランスで刊行された本を1冊ずつ収めさせる「納本制度」を始めます。(これは検閲の目的もありました)
ブロワの王室文庫では、司書メラン・ド・サン・ジュレ(1494-1547)がこの制度により蔵書を増やしますが、フランソワ一世はフォンテーヌブローの世襲城にも別に自らの書庫を作っており、1544年にブロワの王室図書館はフォンテーヌブローへ統合するよう命じられました。こちらで司書になったのが、人文主義者として王の側近であったギヨーム・ビュデ(Guillaume Budé 1467–1540)です。また製本師長にはE.ロッフェという体制でした。この時から十年ほど王室蔵書はこの地にあります。
公式の王室文庫はフォンテーヌブローのもので、王室司書の称号もビュデの方が保有していますが、ブロワの文庫もその後続いていたらしく、この時代は王家の文庫が二つ併存していたようですね。
この時期の最も重要な出来事はやはり納本制度の開始ですが、ただこの制度は当初はうまく機能しておらず、地方で印刷された本はもちろん、パリで印刷された本でもその半分も収められていなかったと推定されています。
第Ⅳ変奏 アンリ二世 愛書王
フランソワ一世の継承者で息子のアンリ二世(Henri II de France 1519-1559)は、王としての事績は父に比べてさほど語る事はないものの、愛妾のディアヌ・ド・ポアティエ(Diane de Poitiers 1499-1566)共々愛書家として知られ、一方正妻のカトリーヌ・ド・メディシス(Catherine de Médicis 1519-1589)の方もこの道では名だたる存在でした。
おりしもグロリエの影響でフランスの装丁技術が勃興した時期にあたり、王(とその愛妾、そして正妻)はとりわけこの面に関心を注ぎ、多くの美しい装幀の書物を作らせています。修羅場の三角関係にあったこの三人の愛書家はアンリ二世の死後、関係が一変し、正妻と愛妾の力関係の差によって前者が後者の特権や財物を剥奪するというお定まりの経過をたどることになりました。とにかくこのアンリ二世という国王は、愛書家という点では歴代でもシャルル五世に並ぶ存在と言っていいでしょう。
第Ⅴ変奏 アンリ三世 途絶した計画
ヴァロア朝最後の国王アンリ三世(Henri III, 1551-1589)は愛書王アンリ二世と愛書家カトリーヌ・ド・メディシスの間に生まれただけあってその短い治世には大きな集書計画がありました。1583年に彼の王宮図書館を書誌学者フランソワ・ド・ラ・クロワ・デュ・メーンが設立する事になるのですが、この時100本の本棚に100冊ずつ載せることを目指して購入計画を立てています。
しかし王の死と王朝の終焉により、16世紀の時点で10000冊を所蔵する幻の図書館は実現しませんでした。
第Ⅵ変奏 アンリ四世 パリ帰還
ブルボン朝初代のアンリ四世(Henri IV 1553-1610)の時代に王室文庫はパリへ復帰します(1555年)。
幾人かの国王が、王室の文庫と自らの出身家の文庫を統合させたため、フランス王室蔵書の所在地もこれまでルーブルから、アンボワーズ、ブロワ、フォンテーヌブローと巡って来ましたが、以後大革命までパリを離れる事はありません。最初はクレアモント(Cleamot)大学に置かれ、のち1622年にハルプ通りへ移る事となります。
アンリ四世の時代には王室図書館長ド・トゥの下、蔵書数は4430冊に拡大しました。(但し実務は司書のイサアク・カゾボン(Isaac Casaubon 1559–1614)やニコラ・リゴー(Nicolai Rigaltii 1577-1647)などが担っていました。)ド・トゥの在任中特筆すべき事としては、やはりカトリーヌ・ド・メディチの古写本のコレクション(多くのギリシア語写本を含む800点近いもの)を加えた事でしょう。またサン・ドニ修道院(Saint Denis)からは、カール禿頭王所蔵であった聖書を含む文庫を購入しています。
(フォンテーヌブロー宮殿から文庫をパリに移したのはシャルル九世だという記述もネットでみました。この部分の管理人の記述はエルマー・デイヴィスを踏襲しています。 確かに宮殿自体をパリへ移したのはシャルル九世であるけれども、王室文庫自体は最初Cleamotに置かれているし、またフロンドの乱前後はとにかく国中がゴタゴタの時期なので、取りあえずこのままにして置きます。この辺りの事情に詳しい人がいたらご教示願います。)
第Ⅶ変奏 ルイ14世 17世紀の蔵書の拡大
シャルル五世を別にすれば、これまでのフランス王室の蔵書は、その時分の同国においてダントツの存在とは言えませんでした。前述したように一族のオルレアン公家などは国王を上回る数の本を持っていたし、16、7世紀のフランスを代表する蔵書家であったグロリエ、ド・トゥ、マザラン、コルベールは所蔵数においていずれも王室を上回っています。
ところがルイ14世治下でのコルベールによる強化を経た以降は、名実共にフランス第一の集書としての地位を獲得する事になります。
財務総監のコルベール本人はド・トゥの様な図書頭ではないものの、王室建物の管理者であり、猟官制度を利用して自らの親族を王室の文庫官へ任命していたため、事実上の王室図書館の宰領者と言ってもよい存在でした。名だたる大蔵書家としての見識からの彼の判断は、大いに文庫を益したと思われます。(その反面、彼は王室蔵書から重要文書を持ち去って自らの庫へ入れる様な事もやっていました)
ともあれこれ以後、王室図書館は多くの著名な蔵書を併合し、また納本制度が軌道に乗り始めた事もあって、量・質共に他とは隔絶した存在になってゆきます。欧州では納本制度が始まる前まではリチャード・ド・ベリーやヤコブ・フッガーの様にどこの国の王家よりも沢山の本を持ってる個人が存在しましたが、この世紀あたりからそれは徐々に苦しくなってきます。
また、この時代からは蔵書目録も印刷版で出版される様になりました。
ルイ13世時代の1622年に出た最初の印刷目録は、およそ6000冊を収め、写本と印刷本に分かれてていて、さらにその二部門がそれぞれ言語別に分類されていました。ド・トゥの信頼篤かったニコラ・リゴーによるこの目録は、まず写本と印本を分けて記載している点が画期的であり、配架場所との参照を主眼に作られたそれ以前の目録(例えばフォンテーヌブロー時代のもの)では両者がごっちゃになっており、内容面での分野ごとの記載にとどまっています。
1688年と1690年にはさらに新しい目録が出ました。まず刊本のみの印刷目録が全十巻で出版され、うち六巻は著者ないし基本記入でアルファベット順に配列されていて、後の四巻は件名によってアルファベット順に配列されていました。二年後の1690年に、写本だけの目録が八巻本で出版されることになります。
蔵書数の推移については以下の通りです。
上に記したように1622年の最初の印刷目録では6000冊だったのが、1666年には写本が6000冊、印刷本は2万冊の計2万6千冊にまで膨らんでいます。この世紀の終わり(1699年)には、印刷本だけで5万5千に至りました。
17世紀にここへ入った個人蔵書の大きなものをあげてゆくと
まず1622年に1200冊のラファエル・トルシェ・デュ・フレスン(Raphael Trichet du Fresne)の蔵書が購入された、とありますが、これは美術史家の息子(1611-1661) の方ではなくて書誌学者の父 (1586-1649)の方でしょう。
同じ1622年にはフルー(Hurault)家の400点(ギリシア語写本やインクナブラなど)も購入されています。査定にはド・トゥの門下であったピエール・デュピィやニコラ・リゴーらがあたりました。
またコルベールが宰領していた時分には、彼は失脚させた政敵のニコラ・フーケ(Nicolas Fouquet 1615-1680)の蔵書も入れています。富貴をもって鳴る人物だけに蒐集内容もかなりのものが予想されます。
17世紀の末にはジャック・メンテル(Jacques Mentel 1599-1670)の文庫数千冊が入ります。
そして最も重要なのは、過去に王室図書館の館長も務めた大蔵書家のド・トゥのものが入ったことでしょう。ド・トゥ家の蒐集は蔵書家亡き後も拡充されて来た事で知られています。
コルベール時代の大きな特徴としては、東洋の写本、文献も集まるようになったことです。彼の造った東インド会社は次世紀の1723年にも中国から漢籍1800部を7箱に詰めて贈ったといいます。
1667年には12万点にに及ぶ版画も購入しました。
第Ⅷ変奏 ルイ15世 18世紀のさらなる拡大
70年を越えるルイ14世の長い長い治世が終わる直前の1714年には、王室図書館には7万冊もの書物が溢れていていました。収蔵スペースがなくなったのでリシュリュー街へ移転する事になります。
1719年には8万の印刷本1万6千の写本。
吸収された個人蔵書については以下の通りです。
「千夜一夜物語」の翻訳で知られ、イスラムのオーソリティだったアントワーヌ・ガラン(Antoine Galland 1646-1715)の蔵書。
1684年から1718年の間王室文庫の司書を務めたルーヴォア神父[(Camille Le Tellier de Louvois 1675-1718)による写本300冊の遺贈。(は文庫三万冊を寄付したと書いてますが・・・)
1719年に購入されたものとしては、古典学者のクラウディウス・サルマシウス(Claudius Salmasius 1588-1653)旧蔵のノートと写本630点、
歴史家のエティエンヌ・バルーズ(Étienne Baluze 1630–1718)の写本957点、古文書700点、原稿7笥がなどがあります。コルベールの項で語りましたが、バルーズはその名司書として鳴らした人です。
そして1728年には念願のコルベールの文庫の大半も入ることになりました。ド・トゥのものに続いてこれを吸収した事は、量・質の両面で王室文庫の拡大にとって決定的でした。
1736年イエズス会がパリから追放されると、その図書も吸収。
同じころにロージャ・ドゥ・ゲェニェール(Roger de Gaignières 1642–1715) の中世写本の大コレクションが寄贈されています。
こうした著名な蔵書の併呑や納本制度の他にも、当時の王室図書館はヨーロッパ中の書籍商との取引があり、また海外へ派遣された外交官や宣教師からもその地で獲得した写本や刊本が送られて来ました。フランス革命直前には、刊本のみで15万冊という欧州を代表する蒐集のひとつになっていました。
第Ⅸ変奏 19世紀 革命によりフランス国立図書館へ
フランス革命後、王室の所有していた美術・工芸品のコレクションはルーブル美術館となり、王室の蔵書はビブリオテーク・ナショナル(フランス国立図書館)となって、共に国民共有の財産として公開されます。
新しい国立図書館にはフランス王室の他に、亡命貴族や修道院の蔵書も加えられ、またナポレオンの革命軍も征服地から図書を没収してここへ収めました。国立図書館の方で不要とされた本は地方へ送られ、これがフランスの地方公共図書館の礎となります。全国書誌・国民に対する図書サービス、全国図書館計画などの制度が導入されたのもこの時期です。
このようにして1818年までにビブリオテーク・ナショナルの蔵書は100万冊に達し、1860年には150万冊、1908年には印刷本が300万冊を上回り、1960年までに印刷本が500万冊を超えました。現在では蔵書数を誇っています。
また第一次大戦後には、マザラン図書館(1930)や、アルスナル図書館(ポルミ侯爵蔵書)などが付属図書館として合併されています。
終曲 フランス王家の人々の蔵書
以上、オフィシャルな王室文庫の展開を駆け足でみてきましたが、これとは別に、王族の人々が個人で所有していた蔵書についても、その著名なものについて簡単に触れてみましょう。
まず、中世篇の番外「ワイタムの森」では、中世末期に個人蔵書の記録の残るフランス王妃たちについて以下のような記述をしています。最後のアンヌ・ド・ボージュ王女はこの時期(16世紀)としてはかなり多いですが、後の人たちは時期が時期だけに(14世紀)、量的にはさほどではなかったように思えます。
● ルイ十世の妻であったハンガリーのクレメンスは14世紀初頭に彼女固有の文庫を持っている
● シャルル四世の妻であったジャンヌ・デヴルー(Jeanne d Evreux 1310-1371)は宗教書からなる蔵書を所有していた。
● フィリップ五世の妻ブルゴーニュのジャンヌ(Jeanne II de Bourgogne 1291-1330)と
● フィリップ六世の妻ナバールのブランシェ(Blanche of Navarre 1330-1398)は嫁ぐにあたって多くの書を持参しフランス王室の蔵書を増やした。
● ルイ十一世の娘アンヌ・ド・ボージュanne de beaujeu1523年 314冊が残っていた。
一般的にフランスの王族のうち、特に重要な人たちに関しては、王室文庫の推移を語った上の記述中にすでに登場してしまっているので、そちらを参照して下さい。(そうしてしまうと、この項の価値が半減する気もしますが)
まずシャルル五世の二人の弟、ぺリ公ジャンと、ブルゴーニュ公フィリップ。そしてその孫のブルゴーニュ公フィリップ三世。続いてアンリ二世の愛妾ディアヌ・ド・ポアティエと、正妻カトリーヌ・ド・メディシス、それと一族のオルレアン公です。
では、それ以外の人たちを下記に記してみましょう。
☆ マリー・ド・クレーヴ(Marie de Clèves, 1553-1574)
フランソワ一世の娘でコンデ公の最初の妻となります。若くして亡くなりますが美貌で知られていました。
で、一気に飛んで18世紀です。この時代になると、王室図書館自体がもう十数万の規模を誇っているので、王族の方々もプライベートで数多くの書物を所有されています。
18世紀のフランス王室の女性で愛書家として知られていたのが、ポンパドゥール夫人、王女マリー・アデライード、王妃マリー・アントワネットの三人でしょうか。所蔵数は以下の通りです。量的に飛び抜けて持っていたのはルイ15世の娘のマダム・アデライードです。
☆ ポンパドゥール夫人(Marquise de Pompadour, 1721-1764)
ご存知ルイ15世の愛妾です。啓蒙主義者たちのパトロンでもあり、著名なサロンを主催した彼女には4000タイトルもの蔵書がありました。有名な肖像画の背景の本棚に並べてある本の背表紙を読むとモンテスキューの「法の精神」や「百科全書」四巻などがあるそうです。
☆ マリー・アデライード・ド・フランス(Marie Adélaïde de France, 1732-1800)
10580冊もの書物を所有していたマリー・アデライードはルイ15世の娘でしたが婚期を逃し、妹たちと共に「いかず後家」として50代後半まで宮中を支配した女性です。とりわけ父の愛妾が嫌いだったらしく、上記のポンパドゥール夫人にも対抗しましたが、オーストリアから来たばかりで何も知らない甥の嫁のマリー=アントワネットを、王の次の愛妾のデュバリー夫人にけしかけた話は映画などで有名ですね。私はむしろこっちの老三姉妹を主人公にした方が面白いストーリーになるんじゃないかと思います。
☆ マリー=アントワネット(Marie-Antoinette, 1755-1793)
トリアノン宮に1910冊、チュイルリー宮に1808冊とかなりの蔵書家でした(今はベルサイユ博物館にあります)。ポンパドゥール夫人と並んで手択本に人気の集まる王妃ですが、革命前に競売に付された夫人の蔵書とは違い、王妃のそれは国家に接収されたので、市場に出回っているのは革命のどさくさに紛れて盗まれたものに限られ、本物となると極めて少ないそうです。
。
国王であるルイ16世自身も、王室文庫とは別にかなり大きな個人蔵書を持っていました。王室文庫も歴史が古くなると、だんだんと図書館の色彩が強くなり、これに応じて国王も別にプライベート文庫を構築しがちです。ゲーテが司書をしてた頃のワイマールの話ですが、ワイマール公本人が自らの王室図書館から借りた本の返却期限を守らなかったのでゲーテがペナルティーを与えたなんてケースもありました。
そのルイ16世の二人の弟のプロヴァンス伯とアルトワ伯は、いずれも王政復古後にそれぞれルイ18世、シャルル10世として即位することになりますが、共に名だたる蔵書家です。このうち特に重要なのは、そのコレクションがアルスナル図書館に発展するアルトワ伯でしょう。それでは、この三兄弟について下記に。
☆
ルイ16世(Louis XVI 1754-1793)
ヴェルサイユ宮殿に置かれていた彼の個人蔵書は11392冊もありました。
☆
王弟プロヴァンス伯(Louis Stanislas Xavier 1755-1824 後のルイ18世)
プロヴァンス伯は、魯鈍であったとされる兄ルイ16世との差別化を図るために、自身の知的なイメージを作り上げようとしたと言われています。多くの書を集め、アカデミー会員や学者と交遊しました。ヴェルサイユの書庫には11581冊もの書物がありました。(13000冊という記述もあり)
☆☆
王弟アルトワ伯(Charles-Philippe 1757-1836 後のシャルル10世)
アルトワ伯はある意味兄のプロヴァンス伯を遥かに超える大蔵書家です。それはダルジャンソン家のポルミ侯爵の巨大な蒐集を買い上げ、図書館を作り自身がその館長におさまったからです。最大の蔵書家のコレクションを丸々買い取っただけじゃないの?と言いたくもなりますが、ノディエなどを司書として遇し19世紀のアルスナル図書館の栄光を準備した人物としてこの王様の功績は見過ごせません。
≪おわりに≫
最後にフランス王家の蔵書に併呑された著名なものを書き出してみます。
duc de Berry
duc de Bourgogne
duc d’Orléans
Royaume d’Aragon
Visconti Sforza
De La Gruthuyse
Janus Lascaris
Catherine de Médicis
Saint Denis
Raphael Trichet du Fresne
Hurault
Nicolas Fouquet
Jacques Mentel
Jacques Auguste de Thou
Antoine Galland
Camille Le Tellier de Louvois
Claudius Salmasius
Étienne Baluze
Jean-Baptiste Colbert
Societas Iesu Paris
Roger de Gaignières
また長い歴史を持つこの王室文庫は、その蔵書を管理する歴代の図書の頭にも、錚々たる名前が並んでいます。
ブロワ時代にはマロ派の詩人メラン・ド・サン・ジュレが宰領していたし、とりわけフォンテーヌブロー時代以降にはギョーム・ビュデ、ジャック・アミヨーのような著名な人文主義者の名もみえます。アンリ四世時代には、前述したように自身も蔵書家として名高いド・トゥもその任にありました。
その反面、王室文庫自体の所有者である国王の個性の反映は、シャルル五世とアンリ二世を除けばさほど目立ちません。特に最大の飛躍期であったルイ14世時代には、王自身のイニシアティブは、コルベールの陰に隠れた格好です。強いて挙げればルイ14世がコインを好んだので王室文庫が貨幣コレクションをする様になった事ぐらいでしょうか。
300年を越える王室文庫の展開を1ページでまとめるには少々無理があったかもしれません。事実、蔵書内容にもほとんど触れずじまいでした。
昔、内藤湖南が応仁の乱の「前と後」で日本の歴史を二つに割ったように、フランスという国の歴史を二つに割るとすれば、「大革命の前と後」と考えるのが、わりと昔風の考え方なんでしょうが、行政制度や社会思潮その他を勘案すると、むしろ絶対王政と革命政府は「中央集権の強さ」において極めて連続的な性質が強く、これはリシュリュー以前の、例えばフロンドの乱の頃に公や候や伯が自ら馬を駆って国内を駆け巡ってた当時とは、全く風景が別です。
そうしたこの国の中央集権の徹底性は、集書の面でも非常に顕著にあらわれています。国内の書物が質・量ともに一か所に集中してるという点では、ビブリオテーク・ナショナルは明らかに大英図書館以上であり、太陽王時代のコルベールによる情報の集中スタイルは、革命以降のすべてのフランス政府が踏襲したところでもあります。
フランスの愛書家黄金時代を彩るグロリエ、ドトゥ、マザラン、コルベールの内、早くに散逸したグロリエを除く他の三人の蔵書は、主要部分はいずれもその後同図書館の管理下になりました。続く18世紀を代表する二人、ラヴァリエール侯爵とポルミ侯爵の蔵書も、前者はオークションで散逸しましたが、後者はやはりビブリオテークナショナルの付属図書館となっています。
我が国の宮内庁書陵部の場合も、確かに幕府紅葉山文庫や小槻氏官文庫をはじめ日本の様々な重要コレクションを吸収してはいるものの、とてもここまでではありません。前田尊敬閣や天理図書館、岩崎の東洋文庫や静嘉堂など、他の大蔵書家たちの蒐集の多くが国会図書館にも宮内庁にも吸収されず今も独立を保っています。蘇峰の文庫もそのまま保存されてるし、名古屋では蓬左文庫も健在です。
アメリカの例を見てもやはり同じです。個人コレクションの図書館化の盛んなお国柄にもかかわらず、ワシントンの議会図書館以外に、ハンチントン、モルガンをはじめとして至る所に質・量ともに巨大な民間コレクションが割拠する状態です。
フランス王室のコレクションを継承したビブリオテークナショナルは、19世紀の間西欧圏最高の図書館でした。19世紀の終わりか、20世紀の初め頃に所蔵数では大英図書館に抜かれますが、質の点ではあながちそうとも言えないんじゃないでしょうか。