蔵書家たちの黄昏

反町茂雄の主題による変奏曲

英国王室の蔵書

 

英国王室の蔵書
(このページはフランス王室の蔵書と対になっているページです。それと較べて読んでください)

 

 

 

 英国王室の蔵書は、おおよそ次の三期に区分けすることができます。

[1470~1657] 
近世初頭にエドワード4世が王室図書館を設け、基本的にこの文庫がハノーファー朝誕生まで続いた時期。

[1660~1827]
ジョージ3世がバッキンガム宮殿に王室図書館を再興し、その拡張に勤めた時期。

[1830~  ]
ウィリアム4世がウィンザー城に新たに設けた王室図書館の時代。これは現在まで続いています。

 では、これら”Old library”時代、バッキンガム宮殿時代、ウィンザー城時代について以下で詳しくみていきましょう。

 

 

 

Ⅰ 前史  プランタジネット朝、ランカスター朝の国王たち

 中世篇では当時の諸侯や個人の蔵書量の少なさを繰り返し語ってきましたが、イギリスのプランタジネット朝はその中でもかなり少ない方です。
 恐らく、たいがいの中世君主の例にもれず文盲であったものと推定されます。ただ、それにしても活版印刷開始以前の写本が20冊ほどしか現存しないというのは珍しいです。エドワード3世あたりは王太子時代から中世最大の蔵書家であったリチャード・ド・ベリーが家庭教師にとして付いていて成人後も側近として仕えているので、彼からの影響は何もなかったのか?と少々不思議な気持ちになります。
 とにかくヘンリー2世(Henry Ⅱ 1133-1189)の創始したプランタジネット朝250年間にはあまり本に関する話は聞きません。続くランカスター朝60年間でも同様です。

 

 エドワード3世(Edward Ⅲ 1312-1377)の治世(1327年-1377年)には、貴族から没収した図書をロンドン塔に集めていたという記録が残っています。これらは主に政府の要人に配られ、王の側近だったかのリチャード・ド・ベリー( 中世篇 で解説)はここから14冊受け取っています。 末期の1340年にこの場所に残っていた数が18冊というから規模的には大したものではなく、いずれにせよこれは王の私物ではありません。

 リチャード2世(Richard Ⅱ 1367-1400)の治世(1377年-1399年)にフランスのシャルル6世が英国訪問の折に携えてきたという記録の残る装飾写本が、現在大英図書館にある旧王室蔵書から発見されています。

 
 ヘンリー4世(Henry V 1367-1413)の治世(1399年–1413年)にはエルサムの城館に「新しい研究」と名付けられた図書室を設けた記録が残っています。そこには少なくとも9冊の本があったと伝えられます。

 ヘンリー5世(Henry V 1386-1422)の二人の弟は蔵書家でした。これについては一番下で解説します。

 

 

 

Ⅱ Old library の時代

 

 英国における本格的な王室蔵書の起源は、薔薇戦争に勝利してヨーク朝を開いたエドワード4世(Edward IV 1442-1483)が1470年代に設立した図書館に遡ります。
 エドワード1世(Edward I 1239–1307)から彼の治世までのおよそ170年の間で、現在まで伝わっている写本はわずか20あまりだとされているので、そう言い切っていいでしょう(ただ王族の個人による所有も含めるともっとありましたが)。以後この文庫がテューダー朝、ステュアート朝と長らく続いてゆく事になるわけです。

 

 ☆ エドワード4世
 エドワード4世(Edward IV 1442-1483)は彼の図書館に50点もの写本を集めました。晩年の1479年には特に大きな購入が行われた記録が残っています。
 国王はフランスへ亡命していた時期(1470年)にフランス最大の蔵書家だったブルゴーニュ公シャルル3世(名前が紛らわしいが国王ではない)のコレクションに接したものと推測され、それまであまり書物に関心を向けなかった歴代国王の中で彼が本を集めるようになったのはこの影響が指摘されています。
 彼の蔵書もフランス語の大判の装飾本が中心でした。これらは巨大すぎて持ちづらいので、王自ら読んだのではなくて専用の台に載せて臣下に読ませたものと思われます。内容は歴史書をはじめ、ボッカッチョ、アラン・シャルティエ、シャルル六世の宮廷詩人だったクリスティーヌ・ド・ピサンなどの著述でした。
 なおこの国王の治世ではウィリアム・カクストンがウェストミンスターで英語の本の印刷を始めています。

 

 ☆ ヘンリー7世
 上記エドワード4世の弟であるリチャード3世を打ち破り、チューダー朝を開いたのがヘンリー7世(Henry VII 1457-1509)です。 一時期フランスで亡命生活を送ったせいかフランスの高級印刷本を好み、少ないながら写本の製作もさせています。

 ☆ ヘンリー8世
 ”Old library”の長い歴史の中で最大の拡張期にあたるのは、次のヘンリー8世(Henry VIII 1491-1547)の頃です。現在の見方からすれば確実に暴君にカテゴライズされるであろう国王ですが、その修道院の財産の没収がこれに大きく与かりました。
 そもそもヘンリー8世の蔵書は主にロンドン西部のリッチモンド宮殿に置かれており、そこには専任の司書もいたといいます。彼の時代は写本から印刷本に移り変わる過渡期にあり、この頃流行っていたベラム紙に印刷させるといったやり方を王も行っていました。しかし装飾写本の製作も依然として健在であり、そのためにかつてエラスムスやウルジーが使っていた高名な製本職人を雇用しています。
 1535年に最初に編纂された目録には143冊の本がフランス語で記載されていましたが、これはリッチモンド宮殿の本のみで他の場所にもあったと推測されています。いずれにせよ、この時期までは未だエドワード4世の蔵書がコレクションのうち多くを占め、その継承物といった性格を脱していません。
 前述したように、彼の蔵書の拡大はこの後、英国の修道院蔵書を没収する事によって成されました。
 彼の命令によってイギリスでは900以上に上る修道院が閉鎖したのでその膨大な財産は国家に没収され、当然書物もその例に洩れません。(王は修道院を解散させる前夜の1533年にジョン・リーランドに命じてこれらのライブラリーを調査させています。)
 修道院から接収された本は当初はウェストミンスター、ハンプトンコート、グリニッジなどの宮殿書庫に分置されていましたが、1549年以降にはウェストミンスターへ集中するようになります。ここには1542年4月以降の計910冊を掲載した目録はあるものの、それらがどこの修道院の蔵書だったかを追跡することはもはや不可能です。
 しかし、このようにして王室書庫に入った書物は修道院蔵書全体のうちで氷山の一角に過ぎません。末期の修道院にあった写本はのべ30万冊以上ともいわれており、それらは混乱の中にほとんどが消えました。今日現存するものは3600冊ほどです。
 ともかく王室蔵書はこの時代に修道院蔵書を多く得たことにより、これまでになく貴重な書籍に溢れることになりました。これに加えて、ヘンリー8世はウルジーやトマス・クロムウェルのような逆臣の私財没収も盛んに行っており、彼らの本も王室に入りました。
 
 ☆ エドワード6世
 次代のエドワード6世(Edward VI 1537-1553)の下ではキリスト教の国教化が進んだため、いまだ修道院に残存していたカトリックの典礼写本の相当数が破壊される結果となります。そのため、王室蔵書は1558年にも修道院から接収した書物を再度追加しているものの、にもかかわらずこれらには中世の典礼写本が非常に不足していました。
 ところで、この時代の王室蔵書の置かれている場所はウェストミンスター宮殿にほぼ一元化していたようです。(ただリッチモンドにも幾分かのコレクションは残っていたと推定されています)。 彼の治世における王室蔵書への追加で特筆されるべきは、マルチン・ブツァーの原稿を未亡人からの購入した事でしょう。
 エドワード自身はわずか16歳で亡くなり、彼の姉たち(メアリー1世、エリザベス1世)が続いて即位しますが、これ以降の後継者がおらずチューダー朝は断絶します。

 ☆ ジェームス1世
 スチュアート朝の初代であるジェームズ1世(James I 1566-1625)の治世には王室コレクションに貴重な追加をみました。
 まず王太子ヘンリー・フレデリックが行ったジョン・ラムリー(John Lumley 1533-1609)蔵書(の一部)の買収は”Old library”の歴史において非常に重要です。ラムリーの蔵書は当時ジョン・ディーに次ぐ3000冊もの規模を持ち、また岳父を通じて、刑死したカンタベリー大僧正トマス・クランマーの旧蔵書も引き継いでいました。
 1614年には、やはり名高い蔵書家だった古典学者のアイザック・カソボーン(Isaac_Casaubon 1559-1614)の蔵書も買収しています。
 ちなみに王太子の死後、その個人蔵書が保管されていたセントジェームス宮殿へ王室の蔵書も統合されて、以降はここが王室文庫の場所となりました。

 ☆ チャールズ1世 
 そして次代のチャールズ1世(Charles I 1600-1649)の治世には、”Old library”史上で最も重要な書物の取得があります。
 1621年、コンスタンティノープル総主教のシリル・ルカリスが英国政府の支援への感謝のしるしとして、五世紀のギリシア語聖書のアレクサンドリア写本を王室へ寄贈しました。これはシナイ写本、バチカン写本と並ぶ最古の聖書写本のひとつであり、後にアシュバーナムハウスの火災から危機一髪救われる事になるのですがそれはまた後の話。

 

 

 以上のようにヘンリー8世以後の王室文庫は貴重な書物を多く獲得しています。ただ、量の面では末期の頃でおよそ1万7千冊と同時期の独仏の王室に較べるとかなり小ぶりな印象を受けます(フランス王室の蔵書はすでに7万冊を越えていました)。
 これはおそらく納本制度の導入が遅れたからでしょう。英国では、スチュアート朝末期のアン女王(Anne Stuart 1665-1714)の治世になってようやくこの制度を導入しますが(1710年)、フランソワ一世が欧州で最初に納本制度を始めたのは実に1537年なので、英仏王室の集書には量の面でかなりの差が出たと言わざるを得ません。

 ご存知のように、制度導入の直後の1714年に女王が崩御すると王朝は断絶し、ドイツからハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒがやって来て、ジョージ1世(George I 1660-1727)として即位。ここにハノーファー朝が成立します。
 このドイツ生まれの新国王は英語をほとんど解さなかったと言われています。そのためかノールウィッチの司教ジョン・ムーア(John Moore 1646–1714)の刊本30000冊、写本1800冊という当時英国で最大級のコレクションを購入した時も、王室ではこれを保有せずケンブリッジ大学へ寄贈しています。
 次代のジョージ2世(George Ⅱ 1683-1760)も30過ぎてから父に従ってイギリスへ来たような人であり、王家伝来の英語本には愛着はありませんでした。それ以前に、彼は読書自体に全く興味がなく乗馬や狩りを好んでいたと伝えられています。 結局、この国王の時(1757年)に王室蔵書17000冊を国家に寄付し、それは大英博物館へ収蔵される事になりました。 (幸か不幸か、設立直後の大英図書館にとっては蔵書が大幅に拡大するまたとない僥倖でした)。
 ちなみにこの”Old library”のうち、写本のみはアン女王時代の1707年にコットンハウスの図書館に寄託されていました(コットン卿の死後、彼のこの図書館はすでに管財人の下で学者や専門家も閲覧可能な状態でした)。これはさらにアシュバーナムハウスへ移されて、そこで有名な1731年の火災にも遭遇した後、ジョージ2世によって王室蔵書が大英図書館に寄贈された時をもって正式な所有者が変わります。 ずっとのち、大英図書館が博物館から正式に分離した1973年にこのコレクションもそちらへ戻りましたが、ジョージ2世の寄贈した旧王室蔵書のうち、刊本の9000冊が大英図書館の中で内容ごとにバラバラに分散していったのに対し、これら写本のみは現在も別コレクションとしてまとまって保管されています。

 

 

 

 

Ⅲ バッキンガム宮殿時代
 ところが、皮肉な事にそのわずか三年後、読書好きな国王が登場します。

 

 

 ☆ ジョージ3世(George Ⅲ 1738–1820)

 1760年に即位したジョージ3世は、祖父や曾祖父とは違ってイギリス生まれでした。反対に、ハノーファー家が未だ領土を保持していたドイツへは一度も帰った事がなかったような人です。在位期間もきわめて長期に渡ったこの国王は学問好きで多方面に興味を持ち、王室に図書館を再建することになります。
 すでに先代のジョージ2世が貴重な写本などを多く含む王家累代の蔵書を寄付した後だったので、宮廷にはほとんど図書がありませんでした。そのため王の蔵書形成は、即位直後の1762~1763年に蔵書家のジョセフ・スミスの個人ライブラリを購入することから開始されました。
 このスミスという人物は、数十年に渡って本を収集したヴェネツィア駐在の領事で、北イタリアの本の情報に詳しく国際的な取引も行っていました。彼のコレクションは装丁の美しさで知られており、その260冊のインキュナブラには初期ヴェネツィアやイタリア北部の印刷所のものが含まれていました。このスミスから王は計6000冊も購入しています。(ジョージ3世蔵書でも最初期にあたるこれらの書物群は、司書が”スミス”と本に書き込んでいたために、現在でも識別可能です)

 司書たちがスミス由来の書物の整理を概ね完了した1766年頃から再び蔵書の拡大が始まりました。
 王がこれ以降の治世で本に費やしていた金額は年平均1500ポンドに上り、とりわけ重要な拡張期とされているのがは1768年から1771年までの間です(ちなみにその真っただ中の1769年では11200冊の印刷本を含む計19500冊を所蔵していました)。
 国王のスタッフは非常に有能で、著名な蔵書家だった医師のアンソニー・アスキュー(Anthony Askew 1722–1774)の没後競売では大英図書館やフランス国王と競り合ったし、ロイヤルソサエティの総裁だったジェームズ・ウェスト(James West 1703–1772) 、シェイクスピアに造詣の深かったケンブリッジの副学長リチャード・ファーマー(Richard Farmer FRS FSA 1735–1797)、デンマークの司書グリムール・ソーケリン(Grímur Thorkelín 1752–1829) など、よく知られた個人ライブラリーが市場に売り出された時にはタイミングを逃しませんでした。
 こうした買収は王室蔵書をさらに大きく拡張しました。この頃には図書館員のフレデリック・バーナードも大陸を広範囲に旅行して大規模な購入を行っています。
 一方、王に対して行われた寄贈では、とりわけ特筆すべきものとして27冊のインキュナブラを含むジェイコブ・ブライアントの蔵書が知られています(1782年)。

 これらの蔵書を保管していたジョージ3世の図書室は、当初クイーンズハウスに置かれていました。同邸宅は後に拡張されて、バッキンガム宮殿と改名される事となります。
 1770年に宮殿に再建された図書館は、特別に建築された四つの部屋から成り、以後はこの敷地内で製本も行われ、それらは1776年までに地下にある五つの部屋も埋め尽くしました。製本は、上質ではあるものの華美に過ぎないスタイルでなされ、この図書館の特色をよく表しています。
 最初にコレクションの管理を担ったのは、既に1755年の段階から司書として仕えていたリチャード・ダルトンです。1774年以降は主任司書のバーナードに交代し、彼はコレクションが大英博物館へ寄贈される終焉の時まで見届けます。購入する本の決定で中心的な役割を果たしていたのはむしろこのバーナードの方でした。その他に、かのサミュエル・ジョンソンも収集方針などについて助言を行っています。

 ジョージ3世によるバッキンガムの王室図書館は、稀書や美麗な装丁への執着よりも、どちらかと言うと学術的な文献を網羅的に収集しようとする実用本位の傾向が見て取れ、学者たちの閲覧も許可されていました。その意味でグロリエ的というより、マザランタイプの蔵書と言えるのかもしれません。
 とは言いながら、すでに世界へ版図を拡大し始めていた大英帝国の権力によって集められた膨大なコレクションには当然多くの稀覯本も含まれ、とりわけそのグーテンベルク聖書と、カクストン版「カンタベリー物語」の初版コピーを始めとした英語インキュナブラ群は名高い存在です。実質的に最初の印刷本といわれる「マインツのグーテンベルク聖書」を四部も所蔵していた蔵書家は、ジョージ3世の他には二代スペンサー伯とアメリカのシャイデ家ぐらいしか見当たりません。
 文庫の最古の蔵書目録は1769年に編纂されていますが、その後1820年から1829年にかけて本格的な「王室図書目録全5巻」(Bibliothecae Regiae catalogus)が上記のフレデリック・バーナードによって刊行されました。これは著者別に分類された目録です。
 目録から分かる事は、全体の44%が歴史関係であり文学は16%にとどまっている点です。とくに同時代の小説を集める事などには消極的でした。一方、史書は外国語の本が六割近くを占めて他の欧州諸国へ目を配っていた様子が伺え、典型的な治者タイプの蔵書のようです。
 1700年代の段階では新聞の収集はしていませんでしたが、雑誌はありました。他に付け加えておくべき点があるとすれば、260版に及ぶ聖書を収集していたことぐらいでしょうか。

 王は図書館の利用に関してきわめて寛容であり、サミュエル・ジョンソンの他、ジョン・アダムズやジョセフ・プリーストリーなどが来館しています。(王とは政治・宗教面で異なる見解を持っていたプリーストリーにも利用を許可している点は強調して置くべきでしょう)

 王はこの他に、ウィンザー城とキュー宮殿にもプライベートな文庫を所有しており、そこでは農業、植物学、建築、科学など個人的興味にもとづくコレクションを形成していました。王自身によって注釈が書き込まれたものも多く、ジョージ3世が読書や書籍収集に大きな時間を割いていた事を伺わせます。(こちらのプライベートコレクションに関しては、のちに王室蔵書が大英図書館へ再度寄贈された時もそこからは除外されていました)
 ジョージ3世が晩年精神疾患を患い、その職務が執政や管財人に代行されたのちも、彼の蔵書は増え続けていました。

 

 

 ☆ ジョージ4世(George IV 1762–1830)

 1820年に即位した息子のジョージ4世も父に似て読書好きであり、すでに皇太子時代からカールトンハウスにきわめて包括的な蔵書を所有していました。このコレクションは当時の作家の作品と歴史文献からなっており、特に軍事史、古典文学、英文学、歴史、地形などに強い関心があった事が伺えます。蔵書の多くは、彼の好みのスタイルにより製本または再製本され、統一的な美観を保っていました。

 ところで即位にあたって、彼が父の蔵書を引き継ぐ際、大きな問題が生じました。ジョージ3世によるバッキンガムの巨大なライブラリが、王個人の私物なのか、王室のものなのか、その帰属が明らかではなかったからです。人生の最後の日々に精神疾患を患っていたジョージ3世はこれに対する意思表示を何らすることなく亡くなりました。
 一時、ジョージ4世がライブラリを他国に売却する計画をしているニュース(未だに真偽不明)も流れて事態は紛糾しましたが、1823年1月、王と政府との秘密交渉によってこれらの蔵書が大英図書館へ寄贈される事が決定されました。
 ジョージ4世が偉大なライブラリを手放す事に踏み切った理由は、主として財政難です(年2000ポンドを越える維持費)。 背景には、彼がバッキンガム宮殿の改装を予定していたという事情もありました。
 また、全体で八万を越えるジョージ3世の蔵書のうち、公的色彩の強いバッキンガムの図書館に置かれていた書物は前述のように一般書中心の傾向にあり、公開性の点でも非常に寛大であったため、これは国家で管理した方がよい、と判断されたのも理解できます。

 引き受けた大英図書館も既存の116000冊の蔵書に新たに65000冊も加わる事になったので、これを機会に新しい建物を建てて1827年にそこへ移転しました。(「大英図書館」という不正確な言葉をあえて何度も使って来ましたが、ご存じのように正確には大英博物館の図書室の意です。正式に分離されたのは20世紀後半です。ただそれ以前から「大英図書館」で通用しており、博物館と言うと紛らわしいのでこの言い方にしました)
 65000冊のうち、重複していたのは21000冊ほどです。王のライブラリの強みであった神学、地理学、スペイン文学、イタリア文学などの分野は、従来の大英図書館にとっては不得意分野でもあり、この図書館の弱点だった部分を強化しています。また、1840年代に大英図書館で利用されていた本の約13%がキングズライブラリーからのものだったというデータが残っているので、この寄贈は公衆を益したと言っても良いでしょう。

 このようにジョージ4世は、80000冊を越える父王の蔵書から、65000冊を分離して国に寄贈したわけですが、実はそこから自分のために33冊の印刷本と2冊の写本だけ引き抜いています。
 前者は、ほとんどがインキュナブラで、その中には「マインツ詩編」やシェイクスピアのファーストフォリオがありました。後者は、サミュエル・ジョンソンの手になるものと、サンスクリット語のヴェーダ文書です。

 最後にもうひとつ付け加えておくべきは、ジョージ4世が皇太子時代の1810年に一族のヨーク枢機卿スチュアート卿の文書を買収した件です。これには王室に関する資料が含まれており、この時の買収がそれまでずさんに扱われてきた王室文書を組織的に管理する常設機関の設立につながる遠因になりました。これは現在ウィンザー城に置かれている王立文書局にあたります。

 

 

 

 ジョージ3世とジョージ4世の二人はホイッグ史観ではかなり評判の悪い国王ですが、書物収集の方面では英国王室史上特筆大書される存在であり、特に前者は18世紀を代表する大蔵書家の一人です。外国に起源をもつ王家がその国のそれまでの文化を吸収しようという意気込みは、なんとなく雍正帝のような清朝皇帝を連想させるところがありますね。

 ロイヤルワラントを所持している現在のイギリスの王室御用達の中には Ede & Ravenscroft のような、現王室よりも歴史の古い業者が存在します。我が国の宮内庁御用達でも昆布の松前屋などは奈良時代に遡るそうですが、日本史における皇室の位置づけを考えると、こういう事はまずあり得ません。
 イギリスの場合、とりわけハノーファー家はドイツからやって来たよそ者の王室というイメージが当初から付きまといました。
 ジョージ3世という国王は、その長い治世を通じて真にイギリス国民の王となった点で、注目に値します。彼はそのために積極的にイギリス文化に分け入り、書物収集はその中核的な営為であったわけです。
 こうした王の集書は公共性の強さでも特筆に値します。学者の閲覧に便宜を図った公開性の面でもそうだし、残した蔵書の大半は息子によってのち大英図書館へ寄贈される事となるのですが、そのずっと以前、彼が集書を開始したごく早い初期(1763年)の段階で、トーマースンの集めた比較的近年に刊行された2200冊(1640~1662出版のもの)を同図書館に寄贈していました。

 

 欧州を代表する二大図書館は、結局王室蔵書を基にしている、と言っても良いのかもしれません。
 ビブリオテークナショナルはフランスの王室蔵書の接収によって生まれた図書館ですが、大英図書館もハンス・スローンという大蔵書家の蒐集から始まりながら、その後なんだかんだ言って19世紀初めまでの英国王室の蔵書の大半が入った事になります。
 しかし仏王室が歴史から姿を消したのと違って英国王室は現在まで続いており、これ以降にもウィンザー城において王室蔵書の蓄積や展開があります。

 

 

 

Ⅳ ウィンザー城時代

 

 1830年に即位したウィリアム4世(William IV 1765-1837)は、現在まで続いている王室文庫をウィンザー城に設立しました。3部屋つづきのルームが図書館に改装され、ここは現在”Upper Library”と呼ばれています。
 大英図書館に旧王室文庫の大半が寄贈されたとはいえ、ジョージ3世はこの他にもプライベートな蔵書がかなりあったし、ジョージ4世も高名なカールトンハウスの私的ライブラリーを残しています。そのためこれらを引き継いで統合した(1837年)ウィンザー城の王室蔵書は出発当初から貴重な書物を多く有する欧州でも指折りのコレクションでした。
 もちろんウィリアム4世自身もそこにかなりの追加を行っています。

 

 続くヴィクトリア女王(Victoria 1819-1901)の長い治世(1837-1901)には、図書館スタッフは大英帝国の全域から本を集め、蔵書量は大きく増加しました。
 1860年にはアルバート王子と当時の司書であるバーナード・ウッドワード(Bernard Woodward 1860-1869)によって図書館全体の再編成が行われます。書物はこの時に主題分野ごとに整理され、この構成は現在まで継続しています。
 またこの頃から王室に関係した歴史的資料にも意を配り、その取得にも動くようになりました。

 

 これを受けてジョージ5世(George V 1865–1936)時代の1914年には王室文書館が正式に設立されることになり、ジョージ・アン文書などはそちらへ行きました。また図書館の司書たちは王室文書館の館員も兼任しています。

 

 1957年には現在のエリザベス2世(Elizabeth Ⅱ 1926- )が音楽関係の書物を分離して王立音楽図書館を設立し、これを政府に寄贈しました。内容は印刷本(約4500点)と原稿(約1000点)ともにスコアなどが中心でピアノロールや録音物も含まれます。これらは現在は大英図書館で音楽コレクションとして保管されています。

 

 
 王立図書館は20世紀を通して収集を続け、今日では1860年の再編時の4倍以上のサイズへ成長し20万を超えるアイテムが含まれています。以下、特に図書館が誇る貴重なコレクションに軽く触れておくと、

 まずインキュナブラですが、これはウィリアム4世以降、ヴィクトリア女王、エドワード7世、ジョージ5世と収集し続けたので250点を越えています。ただ、その中で最重要のものはと言えば残念ながらジョージ4世が父の蔵書が大英図書館に寄付される前にこっそりとりのぞいたといういわくつきの「マインツ詩篇」(1457)でしょう。これは世界で2番目に印刷された本であり、現存する10部の一つです。
 写本でも最も重要なものは、やはりジョージ4世がヨーク枢機卿スチュアート卿の文書を購入する際に得た二冊の時祷書だと言われています。
 骨董品においても同様の事情は存在しますが、稀覯書の世界は早くから集めていた者の勝ちなので、最盛期の大英帝国の国王たちといえども、ジョージ3世やジョージ4世のコレクションを超えるものを取得するのは難しかったようです。

 むしろ興味深いのは、広大な植民地帝国を築いていた関係からこの文庫が言語的に多様をきわめている事の方でしょう。
 古典古代のギリシア・ラテン語はもちろん、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、ロシア語、セルビア語、ハンガリー語など多くの欧州言語で文学コレクションを擁し、収集対象は満州語、チベット語、マレー語、モホーク語、スワヒリ語にまで及んでいます。
 第三世界の古典文明の言語ではインド、ペルシア、エチオピアの古写本に富んでおり、これらのうちで最も貴重なものは、ムガール帝国で制作された最高の装飾写本の1つとされるパドシャナマ(1630–57)だとされます。

 やはりジョージ三世に由来するものとして触れておかなくてはならないのは大量の軍事地図のコレクションです。これらはイギリスがナポレオンと対峙していた時代を感じさせます。

 王室コレクションだけに、他にもシェイクスピアのファーストフォリオやケムスコットプレス、モーツァルトの直筆原稿、オーデュポンの「アメリカの鳥類」、グールドの鳥類図鑑など貴重なものは数知れませんが、この図書館は記章やコイン・メダル類の蒐集でも名高く、とりわけ後者はメアリー女王に遡る歴史を持つそうです。
 図書館は王室メンバーによって収集されたものを保管するだけでなく、歴代の図書館員のイニシアティブも強く働き、軍事史家であった4代司書長のフォーテスキュー卿(The Hon.Fortescue 1905-1926)による戦争関係セクションの拡大はその好例です。

王立図書館 ウィンザー文庫 歴代司書長
John Glover 1837-1860
Bernard Woodward 1860-1869
Richard Holmes 1870-1905
The Hon.Fortescue 1905-1926
Owen Morshead 1926-1958
Robin Mackworth-Young 1958-1985
Oliver Everett 1985-2002
The Hon. Jane Roberts 2002-2013
Oliver Urquhart Irvine 2014-2018
Stella Panayatova 2019-

 

 イギリスの王室文庫の公式サイトは大変充実しているのでこのページでは管理人ごときが付け加える内容はほとんどなく、むしろそこからの我流でのダイジェストにすぎません。詳しくは当該サイトをご覧ください。
 ウィンザー文庫の特徴は、極めて貴重なものにも富んでいる半面で、富にまかせて華美に流れるといった道筋は辿らずに、総じて実利的・総合的な志向が強い事です。これはかつてのジョージ三世の文庫にもみられた傾向でした。もう一点は、1957年のエリザベス女王による音楽図書の寄贈に表れているように、国家・国民に還元しようとする姿勢です。こちらの傾向もセント・ジェームス宮以前の時代へ遡ります。 このようなハノーファー朝の王室蔵書における特徴は、その成立直後から現在まで一貫しています。

 

 

 

Ⅴ 補遺 ヘンリー5世の二人の弟たち

 

 ヘンリー5世という人は、シェイクスピアの戯曲では若い頃フォルスタッフと放蕩三昧をしていたイメージが強すぎてどうもその色眼鏡で見てしまいがちですが、二人の弟はなぜか共に相当な規模の蔵書家になっています。とりわけハンフリー公のライブラリーは王室の規模を遠く上回り、当時の欧州全体でも有数の存在です。

 

 ☆ ハンフリー公
 ランカスターのハンフリー公(Humphrey of Lancaster 1390-1447)はオックスフォードで学び、ギリシャ語書物のラテン語への翻訳を命じていたという話が残るほどの人です。
 彼は、自らのコレクションの大部分である281冊をオックスフォード大学の図書館に寄贈し、これによりそれまで20冊しか本のなかった同大学の蔵書量は一気に増えます。図書館もハンフリー公図書館と名付けられ、後に火事で焼けてボドリーによって再建されるまでの150年間はこの名前を名乗っていました。
 残りの本は公の死後、主にケンブリッジのキングスカレッジへ行きましたが王室へも若干入りました。

 

 ☆ ベッドフォード公
 ランカスターのベッドフォード公(John of Lancaster, Duke of Bedford 1389-1435)はヘンリー5世亡き後、百年戦争の指揮を執ったことで知られます。ジャンヌダルクを処刑したために歴史上ではとりわけ悪役イメージの強い人です。
 彼はこの期間フランスの執政を務めており、その地位を利用してルーブルにあったフランスの王室文庫から強権的に本を買い取ったというエピソードもあって、その時の本が大英図書館の王室旧蔵写本コレクションにまだ残っています。彼のコレクションには現在中世装飾写本では有数の傑作とされている「パリのベッドフォードの時祷書」があり、これは甥のヘンリー6世に贈られた後、所有者を転々として結局大英図書館が獲得しました。

 

 

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© 2021 蔵書家たちの黄昏

テーマの著者 Anders Norén

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