蔵書家たちの黄昏

反町茂雄の主題による変奏曲

[18] 番外編 ナチスドイツの図書収集

 

 

 [ introduction 独裁者たち ]

 西洋の政治指導者のうちで、シーザー、ナポレオン、ヒトラーの三つはとりわけ大きな名前である。より偉大な人物はいくらもいるし、彼らより政略・戦略に優れていた人も少なくない。しかしわずか一代で、ほぼ一般人と変わらない地位からヨーロッパの大半を制覇した点で、この三人の独裁者は古今でも非常に特異な存在だとみられている。
 ナポレオンとヒトラーが大変な読書家だった事は有名であり、共に一万数千冊に及ぶ蔵書家なので、それぞれ該当箇所で解説する予定にしている。シーザーの場合はとくに蔵書に関する伝承は残っていないが、彼の著した「ガリア戦記」や「内乱記」がキケロやリヴィウスと並んで従来ラテン散文の模範とされてきたのは周知のところであり、欧米のラテン語初歩の教育もこれを長らく教材として使用した。戦に強い名将というだけでなく、ローマ古典期の教養人の一人として位置づけられているこの人にも、それなりの規模の蔵書を想定する事は許されると思う。

 しかし、この項で語るのは、そういった個人の集書ではなく、国家としての知識・情報の収集である。この三人はヨーロッパの大半の部分を一代で制してしまうと、揃いも揃って、この世の中の最重要の知識を自らの下へ集めようとするのだが、その対象・方法がそれぞれ異なるからである。

 


Ⅰ シーザーの場合  ローマ国立図書館

 シーザーに、アレクサンドリア大図書館に匹敵するような図書館をローマに設立する計画があった事は、 古代ローマ編 で触れた。
 ローマの国力から言って、これが実現していればアレキサンドリアを凌駕するような存在になっていた事はまず疑いがない。館長に予定されていたヴァロは、そのための書物の収集も実際に始めていた。
 シーザーが帝政への端を開いたのは、エジプト遠征でクレオパトラと接し、古代王政の儀式や伝統に魅了されたためだという指摘があるが、この国立図書館の構想も、クレオパトラの所有するアレクサンドリア図書館に影響されたものだったかもしれない。
 しかし、ご存知の様に、彼が暗殺されたため、この計画は実現をみなかった。
 その結果、ローマでは歴代の皇帝たちが銘々の宮殿に公共図書館を作ることになり、書物は分散する傾向になってしまう。ローマ市内では28もの皇帝図書館が分立し、うち最大のトラヤヌス帝の図書館は蔵書三万巻で出発したが、地中海世界を支配し、ギリシアや小アジアからも大量の書物を略奪してきた大ローマにしては、かなり小ぶりな印象を受けざるを得ない。少なくとも、蔵書七十万と言われたアレクサンドリアには到底及ばない。
 帝国領内では、むしろセルシウスのような文化的先端地の属州にある図書館が質的に評価されたし、規模の点でもコンスタンティノープルに建てられたものが、古代三大図書館なき後ではおそらく最大となった。
 こうした「世界中の本を全部一箇所に集める」とかいうようなドンキホーテ的構想は、世界を統一した時のテンションの高さで、そのまま押し切ってしまわなければ、後になってからではなかなか実現できないものなのである。

 


Ⅱ ナポレオンの場合  ヨーロッパ中央古文書館

 ナポレオンが考えていたのは、図書館ではなく古文書館だった。それはヨーロッパの古文書をすべてパリに集めようという計画だった。
 メッテルニヒの回顧録によると、士官学校と廃兵院のドームの間に、中庭が8つもある壮大な古文書館を建設し、その建物にはあらゆる火災を防ぐため鉄と石しか使わないという話で、ナポレオンはその図面も作成中だったという。
 「古文書を収める場所の事より、まずどうやって古文書を手に入れるかを考えなければならないのでは?」とメッテルニヒが応ずると、ナポレオンは自信に満ちた態度で「どの強国だって、自国の古文書を全く安全な場所に保管して貰えるなら、急いで送ってくるだろう。そうじゃないかね? 安全な上に学問にも有利だという二重の利点から、おそらくそうする気になるはずだ。」
 このあまりに幼く、図々しい目論見に、メッテルニヒが愛想笑いをしながら、他国から出るであろう障害に注意を喚起すると、ナポレオンは「いいかね。それこそヨーロッパの政治家が捨てきれずにいる狭い考えというものだ。私は私の計画を実行する。そのための図面もいま作成中だ」と言い、書斎に案内した。
 ナポレオンによるこの中央古文書館は非常に特異な構想で、各国から派遣された古文書係が銘々の国のセクションに常駐して寝泊まりするというようなものだった。

 勿論この後、彼は失脚するので計画は実現しない。同回顧録の40ページほど後になると、この会話の時には静静と付き従っていたメッテルニヒが、そこではロシア遠征から逃げ帰ってきて怯えきったナポレオンに、最後通帳を突きつけているのである。会談は九時間に及び、独墺軍のフランス侵攻を押し留めようと必死に懇願する皇帝に対して、メッテルニヒは十六回も宣戦布告に該当する言葉を発せねばならなかったという。
 ナポレオンに皇女マリー=ルイーズを皇妃として世話し、帝政オーストリアを革命フランスの侵攻から救ったのもメッテルニヒなら、敗北するやいなや、これを離縁させてナポレオンを放り出したのもメッテルニヒだった。ナポレオンといったら、欧州一の名家から新妻を迎えて糟糠の妻ジョゼフィーヌを離縁し、ハプスブルク家と縁続きになって有頂天になり、マリーアントワネットを「私の伯母さん」と言うような始末であった。一方、メッテルニヒの方は、この後もマリー=ルイーズには美男の士官を世話するなどして抜かりはなかった。マリー・ルイーズは新しい相手に夢中になり、小太りの独裁者の事など忘れてしまう。

 ちなみにこの少し後ぐらいから、ランケやニーブーアによる近代史学が勃興し、それは各国の公文書館を回って史料を集めるというやり方をとるので、方向性としてはやはりナポレオンという人には先見の明があった事になる。

 


Ⅲ ヒトラーの場合

 ナチス・ドイツが行った集書で最も重要なものは、ローゼンベルクによるユダヤ関連の文献と、ヒムラーによるフリーメーソン・オカルト文献の収集である。共に過去にこれほどの規模で行われた例はなかった。次章以下で語ってゆくが、この頁はかなり分量が多くなる。

 

 


《 ヒムラー 1 》

 オカルト文献に関しては、パリのアルスナル図書館が従来欧州では随一のものとされてきた。かのマクレガー・メイザースが魔導書の翻訳を刊行した時も、その底本になったのは彼がここの書庫で探し当てたものであった筈である。
 この図書館は19世紀のフランスの書痴達にとってメッカみたいな場所で、そもそもの成り立ちは、革命前にフランス最大級の蔵書家だったポルミ侯の蒐集を、国王に即位する前のアルトワ伯が求めて自らの蔵書となし、ノディエに管理を任せて公開したことに始まる。以来、多くの似たような人たちが集まり、そういう人たちのサロンと化した。後にユゴーのサロンに人が奪われるまでは、ここがビブリオマニアたちの牙城だったといっていい。ノディエ以降の館長にも、ラクロワなど著名な蒐集家がいる。
 ところで、ナチス・ドイツがハインリッヒ・ヒムラー(Heinrich Luitpold Himmler 1900-1945)の下に行ったオカルト文献の蒐集はそういうものとは少し違っていた。

 

 

《 ローゼンベルク 1 》

 政党としてのナチスには、アルフレート・ローゼンベルグ(Alfred Rosenberg 1893–1946)が長を務める外交担当部局があり、彼はナチスドイツの将来を担うエリート養成のための高等学院(Hohe Schule der NSDAP)設立のプランを練っていた。ローゼンベルクの初期の構想によると、そのために必要な学問分野が10あって、高等学院の本部(ミュンヘンに設立予定)以外にも、以下の10の付属研究施設をドイツ国内のあちこちに設立する計画になっていた。

 インドヨーロッパ語史研究     ミュンヘン
 宗教学研究所           ハレ 
 ドイツ民話研究所         ミュンスター及びグラーツ
 ゲルマニズム・ガリカニズム研究所 ストラスブール
 ケルト学研究所          レーミルト
 ゲルマン民族研究所        キール
 生物学・人種学研究所       シュトゥットガルト 
 ユダヤ人問題研究所        フランクフルト
 東方問題研究所          プラハ
 イデオロギー的植民地研究所    ハンブルグ

 

 

《 ヒムラー 2 》

 ヒムラーが率いる親衛隊内部に組織された秘密警察部門は、本部をミュンヘンからベルリンへ移した時点で、すでに20万冊の本を没収していた。ただ。この時点では好ましくない言論活動に対して場当たり的に対応したに過ぎず、その手法も組織的ではなかった。
 しかし1936年に政治的に不適切な本を調査する部門をベルリンに設け、司書が雇われて「ナチスの敵」と規定した書物の目録が作られる。ここからナチスによる焚書や没収が本格化することになった。この年の五月にはすでに50万から60万冊を没収していたとされる。

 


《 ローゼンベルク 2 》

 ローゼンベルクが設立を計画した10の研究所のうち、実現したのはユダヤ人問題研究所(Institut zur Erforschung der Judenfrage)のみであった(1941)。
 1940年夏、党外務局第三課の下に組織された全国指導者ローゼンベルク特捜隊は、このユダヤ人問題研究所のために占領地の文書館や図書館の資料を確保することを主目的にしていた。そしてそれは同時に高等学院の中央図書館設立も念頭に置いており、そちらの蔵書蒐集への含みもあった。
 ユダヤ人問題研究所所長 兼 高等学院中央図書館長にはすでに1939年に文献学者ワルター・グローテ(Walter Grothe)が任命されていた。グローテは以前、ロスチャイルドのフランクフルト本家のライブラリーで勤務していた。多少グロテスクな話だが、このユダヤ人問題研究所は同家の邸宅に設置されたのである。研究所は当然その蔵書も接収していた。
 高等学院自体の設立は戦後になるだろうとヒトラー自身も言っていたようで、ナチスの人材を養成する本部よりも、まずユダヤ人問題の方を最優先にしたのが興味深い。結果的にドイツの敗戦により高等学院自体は設立される事はなかった。

 

 

《 ヒムラー 3 》

 ヒムラーの行う焚書は儀式的なスタイルをとっていた。例えば、本を焼く時にはエキストラを動員して大衆の見物人を作るケースが多かったし、大量の書物や文書がうず高く積み上げられてから火がつけられた。
 シナゴーグの書物を破壊する時も、わざわざトーラーや祈祷書を往来に引きずり出して、びりびりに裂いて踏みつけてから燃やした。バーデンでは、トーラーの巻物を持って街路を行きつ戻りつ行進し、最後に火をつけた。
 ヘッセンでは聖典が道路上に敷かれ、その上をヒトラーユーゲントの子供たちが自転車で乗り回した。子供たちが聖典で紙吹雪を作ったり、それでサッカーをしたというようなケースもある。トイレットペーパーに使われたという話さえ聞かれた。

 

 

《 ローゼンベルク 3 》

 奇妙なことに、ローゼンベルク特捜隊はベルリン司令部よりもパリの支部の方が先に設立されている。彼らは対仏戦争の戦闘行為がいまだ完全に収束していないにもかかわらず、パリ占領下のフリーメーソン大東社の本部を捜索させるために占拠し、下調べのための人員を派遣した。
 一年後の1941年になって初めてベルリン司令部が設立された。こうしてフランスから始まった文書や書物の押収は、ドイツ国内はもちろん各国でも行われ、ベルギー、オランダ、オーストリア、デンマーク、ノルウェー、ギリシアへ広がった。41年には東欧支部も設立されている

 

 

《 ヒムラー 4 》

 親衛隊の行った大規模な焚書と相まって、密かに情報部で収蔵していた書物も膨大な数に上った。
 1939年の組織改編で生まれた国家保安本部の第二局(フランツ・ジックス局長)がこのような蔵書の保管先であり、これは後に、より特殊化した思想調査部門である第七局へ移された。局長にはやはりジックスが横滑りした。

 

 

《 ローゼンベルク 4 》

 特捜隊設立の半年後、ローゼンベルクはユダヤ人財産の没収も命じられる。そこには美術品や宝飾品が含まれ、後世にはむしろこちらの方で悪名が轟く事になった。
 また特捜隊の方も、ローゼンベルクの意に反してこちらの方により重心を置くようになる。略奪された美術品はリンツの総統美術館に行くか、カリンハルのゲーリング邸に行くかだった。残りは売却された。

 

 

《 ヒムラー 5 》

 第二局が書物を保管していた頃、ジックスはこうした収集の目的を「イデオロギーにおいてわれわれと敵対する者たちの精神的武器を理解するためには、彼らが生み出した著作を深く研究することが必要である」と規定している。つまり、この時点ではローゼンベルクによる書物蒐集とその目的においてさほど違いはない。
 ローゼンベルク特捜隊が、当初の研究目的のための本の蒐集から、美術品の強奪で次第に悪名を轟かせてゆくのに対して、ヒムラーの治安組織は思想統制のための書物の破壊や没収行為から、じょじょに研究目的での収集にシフトしていった。

 

 

《 ローゼンベルク 5 》

 フランクフルトのユダヤ問題研究所については、アメリカ人研究者パトリシア・ケネディ・グリムステッドが「ヨーロッパでもっとも見事なユダヤ関連蔵書」と述べている。
 これは確かにその通りだろう。ヨーロッパの著名なユダヤ系蔵書を軒並み接収して築き上げたのだから。 研究所の蔵書はこの当時で50万ほどに上っていた。
 ちなみに著名なユダヤ人の蒐集で、彼らの押収を逃れたものとしては、例えばアビ・ヴァールブルクのものが挙げられよう。すでにヒトラー政権が成立した1933年に、遺された6万の蔵書はヴァールブルク研究所の移転と共にロンドンに渡っていた。

 

 

《 対決 》 

 ローゼンベルク特捜隊は西ヨーロッパで1000余りの図書施設から資料を接収した。それは機関蔵書、個人蔵書を問わなかった。しかし、書物や文献を収集するナチスのもう一つの部局、ハインリヒ・ヒムラーの親衛隊との軋轢は避けられず、両者は競合関係に至る。
 こうした争いで雌雄を決するのは通常は組織の規模である。この点ヒムラーの親衛隊はローゼンベルク特捜隊よりもはるかに大きかった。
 ローゼンベルグがこれと対等に戦えたのは、空軍を支配するゲーリングと連携していたためであろう。ローゼンベルクは人員と輸送手段を空軍からも得た。接収された美術品でゲーリングが大きな個人コレクションを築いていたのは実はこれに拠るものだったのかもしれない。

 

 

《 紳士協定 》

 結局、ローゼンベルクとヒムラーは協定を結ぶ事になった。
 前者はイデオロギー研究に有用な資料を、後者は国家の安全保障に必要な資料を、という区分けである。しかし、例えばあるユダヤ系図書館に入ってみて、そこに所蔵されていた文書や書籍がそのどちらに該当するのかなどは、簡単には決められない話である。
 案の定、16万冊に及ぶオランダの社会史国際研究所の蔵書の奪い合いは、のちのち語り草になった。

 

 

《 社会史国際研究所 》

 同研究所の蔵書に関しては、ナチスドイツ内部でも多くの部署の間で争いになった。これは接収対象となったユダヤ人、フリーメーソンに続く第三のカテゴリーである共産主義者の蔵書である。そこにはマルクス・エンゲルスの自筆稿や蔵書も含まれていた。
 ローゼンベルク特捜隊と、ヒムラー(の部下ラインハルト・ハイドリヒ)の国家保安部以外にもレースへの参加者が現れている。ナチス労働戦線指導者アルベルト・ライは自らの組織こそが正当な所有者であると主張した。オランダ占領の最高責任者であったザイス・インクルアトはアムステルダム国内に留め置く事を望んだ。
 裁定者であるヒトラーの支持によって、最終的にはローゼンベルク特捜隊がその蔵書を得ることに成功した。それでも同研究所パリ支部の本は国家保安部に奪われている。

 

 

《 図書館と文書館 》

 図書館と文書館が明確に区別されるようになったのは比較的近年の事である
 図書館が一般的な文献を保存する事が目的であるのに対し、文書館は個々の業務に応じた機関によるものから発展してきた。

 歴史的には大抵の場合、図書館よりも文書館が先行する。どのような組織でも業務を行う上で文書の保存は必要だからである。古代ローマでも図書館はかなり後になってから作られたが、文書館はその創生期からあった。古代シュメールでもそうだった。
 研究所や中央図書館のためのローゼンベルクによる収集がおおむね前者を志向しているのに対し、ヒムラーの集書は行政機関が実務上参照するためのものであり、文書館以前の、たんなる一部署が管理している備品に過ぎなかった。

 

 

《 嗜好 》

 二つの組織はじょじょに資料に対する嗜好もはっきり分かれてくる。
 これは接収した資料を彼らが研究してゆく過程で生まれた選好なのか、もともとの職掌上の違いから帰結したものなのか、とにかくローゼンベルグの組織はユダヤ関連文献を、ヒムラーの組織はフリーメーソン関連文献を主に集めた。
 フリーメーソンは近代的な諜報機関ができる前に、各界各層から代表的な人物を選出してそれと似た機能を国際的に張り巡らしていたため、情報機関が関心を持つのは当然かもしれない。 
 ドイツ国内のフリーメーソンロッジの蔵書は主に国家保安部が接収した。フリーメーソン関係の資料に関しても特捜隊と国家保安部は激しい争いを演じたが、このテーマに関しては概ね国家保安部に優先権が与えられ、特捜隊はすでに差し押さえた資料を引き渡さねばならぬ事も多かった。それらの資料は主にドイツ国家保安本部の第七局へ送られ、そこで保管された。

 

 

《 ヒムラー 6 》

 国家保安部第七局の蔵書は、ナチスの多様な敵(ユダヤ、フリーメーソン、共産主義、サンディカリズム、アナーキズム、ポルシェヴィキ、平和主義)など、それそれの部門に分けられていた。最大の部門はユダヤに関する部門であった。しかしヒムラーの組織ではユダヤ関係資料が来ても使用されず埃を被ったままだった。むしろ第七局の蔵書はこうした「国家の敵」に関する純然たる文献以外に、ヒムラーと親衛隊の意向を強く反映してオカルトに関するものを多く含んでいた。
 ヒムラーのオカルト収集が最初に確認できるのは第七局にあった「世界のオカルト文学ライブラリー」以降だが、オカルトに関する資料の蒐集は国家保安本部ができるずっと前から親衛隊情報部の手で行われていたらしい。書物は主にフリーメーソンのロッジから没収したもので、その意味では思想調査の延長線上だったともいえる。
 第七局の「ライブラリー」は、魔術や呪文を扱った特別諸課題Hと呼ばれる部門から、オカルトサイエンス、神智学、占星術に及んだ。第七局はユダヤ人学者や専門家を連れてきて、ヘブライ語やイディッシュで書かれた文献の説明をさせることもやっている。

 

 

《 ローゼンベルク 6 》

 ローゼンベルク特捜隊が押収した蔵書はベルリンの書籍管理本部で帰属が決められた。
 最も重要なユダヤコレクションはフランクフルトのユダヤ問題研究所に送られ、あとはベルリンの市内各所へ置かれた。

 特捜隊にとって単に蔵書をひとまとめにしておく事は意味がなく、彼らがやろうとしていたのは、研究目的別に蔵書を再編成してその専門に特化した新しいコレクションを形成する事だった。この点現在の研究図書館が行っている事と何ら変わりはない。
 現在これが多く批判を受けているのは、それが強制的に接収されたものであったために、多くのコレクションが部門ごとに散らばって、原形を再現する事が不可能になった側面が、大きく捉えられているからである。

 ユダヤ的テーマでないものは高等学院中央図書館や東方文庫に送られた。
 フランスロスチャイルドの人々のコレクションはむしろ中央図書館に行ったという。レニングラード近郊から接収した旧ロマノフ王家の三万五千冊もそうである。

 中央図書館にはローゼンベルグ個人の蔵書も入っていたし、図書館長のフーゴー・グローテの個人蔵書も入っていた
 その他、個人蔵書を寄贈した人物には教会史のウーリッヒ・シュトゥッツ、ナポレオン研究者のフリードリヒ・マックス・キルヒアイゼンなどを数える
 中央図書館の蔵書内容も、ユダヤ問題研究所に負けず劣らず評価は高く、量では計50万から70万あったという。

 

以下続く

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テーマの著者 Anders Norén

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