〔3〕ヘレニズム時代
◇ プトレマイオス一世 & 二世
Ptolemy I Soter (367 BC – 282 BC) & Ptolemy Ⅱ Philadelphus (308 BC – 246 BC)
若い頃にアリストテレスの講義にも接したといわれるプトレマイオス一世が、エジプトをギリシア化するために、研究所とその付属図書館の設立を計画して、書籍を集め始めた。収集の陣頭指揮を執ったのも、アリストテレスの孫弟子にあたるデメトリオスで、彼はアリストテレスの文庫の内容も実際に知っていたという。
一世はその権力を行使し、アレクサンドリアへ入港していたすべての船に積載されている書物のコピーをとった(なんと、返却したのはコピーで、原本は図書館に収めたそうである)。 これらが、彼の息子のプトレマイオス二世の時代になって、新設の図書館に移される事となった。
◆ ムセイオン付属アレクサンドリア図書館 紀元前三世紀創立 Library of Alexandria
プトレマイオス朝の王が集めた膨大な蔵書は、図書館設立以前は個人蔵書として◇印を付し、図書館設立以後は機関蔵書として◆印を付したが、こうした区分はどうでも良かったかもしれない。 ストラボンの記述によると、ムセイオン自体が王の宮殿内にあったというから、これは研究機関も含めて王室所有だったとも取れ、また、図書館の設立以後にも歴代の王たちはアジアまで人を派遣して稀書に金を費やし続けたからである。
とにかく古代最大とされるこの図書館には逸話の類が多い。現存するアレキサンドリア図書館に関する最古の記述は紀元前3世紀のコスの詩人ヘロシダスによるものだが、この同時代人以降、古代・中世の多くの著名人が競ってこの図書館を話題にし、蔵書の数の推定からして百家争鳴である。この項目は少し長くなる。
まず蔵書数について言うと、100万冊から10万冊まで、諸説入り乱れている。比較的コンセンサスを得ているのが、70万という数であろう。
まずセネカが40万冊。 2世紀のアンミアヌス・マルケリスとアウルス・ゲッリウスは70万冊で一致。 一方、エウセビオスはかなり少ない推定で、およそ10万冊。 これらについては、副館のものを合計するかで冊数に開きが出たという指摘がある。
TzetesのScholium は、司書のカリマコスと館長のエラトステネスの説を典拠に、ムセイオンには49万巻、セラベウムには42万8千巻あったと述べている。
アリステアスの手紙では、パピルス文書の巻子本で2万巻。王の計画書は50万巻だったという。
最大の推定は、ビザンツの年代記作家ゲオルギオス・シュンケロスによるもので100万巻だった。
この項目はかなり改稿しているのだが、以前書いていたのは、プトレマイオス一世の没時に20万巻、書を新築の図書館に移した後プトレマイオス二世が亡くなった時の数が10万巻(つまり減っている)、さらに後カエサルがエジプトに来た時には70万巻、というものだった。この時は諸種の推定から取捨選択をして、なんとか時期ごとの変化を表そうとしていたわけである。(今はもう諦めた)
かの碩学シルヴェストル・ド・サシによると、アレクサンドリアには四つの文庫があったといい、ブルケイオン(プトレマイオス家の人が建てた初期のもの)、セラベウム、セバステウム、アレクサンドリアの学校の文庫(かなり後に建てられた)のうち、最初のブルケイオンがふつう言われるアレクサンドリア図書館だという事である。
ブルケイオンの文庫はローマ時代のアウレリアヌス帝の頃まで何とか存在したものの273年に戦災で滅び、この後セラベウムが中心になったが、これもテオドシウスの勅令でキリスト教徒によって389年か391年に破壊されたという。
この様にいくつか副館があり、数百年に渡る歴史を持つ図書館の場合、蔵書数のまともな推定は到底不可能だろう。
それはこのブログの一番の興味の対象である図書館の有していた情報量に関しては一層いえる。 「パピルスの巻子本だから情報量は紙の五十分の一である」と一応は言われるものの、それがどの様な体裁のものだったかは良くわからない。
ビザンツのツェツェスという学者の49万と言う推定を容れたホルスト・プランクによれば、ヘロドトス歴史全九巻はドイツトイプナー版では二巻におさまっているので、図書館の蔵書数を現代書籍に換算すると10万9千冊になるとの事である。ただ詩歌などは1巻が散文より短いのが通常なので、イリアス全二十四巻がトイプナー版で一巻に収まっている。これを含めて計算すると現代書籍八万冊になると。
つまり、今の日本の蔵書家でいえば、だいたい立花隆さんとか、松岡正剛さんぐらいの数にあたるわけである。
ほかに副本の問題もある。この図書館にはかなり副本が多かったとされている。
謎の多い図書館であるにもかかわらず、一貫して古代最高の折り紙がつけられてきたのはその目録による貢献が大きい。(これも諸家の引用による断片しか残らないが)
プトレマイオス朝の豊かな財力で国内外の書物が組織的に収集・収納され、これを学者たちが整理・分類して写本を作成するのだが、それに際してかなり初期の段階で作られたのが、書記カリマコスによる目録「ピケーナス」である。
これはアン・ブレアの用語でいえば、世界初の「レファレンス用」のツールという事になる。まずテーマ別に分類され、カテゴリー内の著者名や作品名はアルファベット順に配列されている。書架の場所が記載されておらず、後のコットン卿の図書室のように乙な事をやっているわけでもないので、業務用の点検目録ではなくあくまで目的別のレファレンス書と推定されている。
130巻に上るかなり大部なものだが、それでもムセイオン全部の書籍の完全な目録ではないらしい。デレヴィッキーによると、アレクサンドリア図書館の蔵書40万の中から9万が選び抜かれて目録に取られたという。 逆にこの目録の中にはアレクサンドリア図書館に無い本もあった事から、Fシュミットはセラペイオンなども含むプトレマイオス朝の図書の総合目録ではないかとも推定していた。
ヘレニズム期に作成されたこの目録に残っていても、現在には伝わっていない重要な著作はきわめて多く、例えば広大な領域に渡ったデモクリトスの全集などはその一例である。
プトレマイオス三世(Ptolemy Ⅲ Euergetes 280 BC – 222 BC)も、一世、二世に引き続き蔵書の拡充に努めたが、セラベウム神殿内に別館を設立したのはこの王である。
セラべウムは、エジプトとマケドニアの宗教が統合された習合神セラビスを祭るための神殿だった。のちのキリスト教は教会に図書館は作らなかったが、アレクサンドリア図書館の館長は祭司であり、図書館は神殿という位置づけであったという点で、間違いなくオリエントの伝統に依拠するものである。(次頁のローマ篇で触れるが、この伝統はローマに置いても形を変えて継続している)
ライバルのぺルガモン図書館との収集競争についてはもうそちらで触れる事にするが、王たちの収集への熱意を示すエピソードは、上の「港に入港した外国船にあったすべての本のコピーを取った件」以外にも多い。
例えばガレノスの書いた話で、プトレマイオス三世エウエルゲテスがアテネの飢饉の折にトウモロコシを売り出すことを条件に三大悲劇詩人の原稿を借り受けたというものがあった。しかし例によって、原本は返却せず書写したコピーを渡したので、15タラントの補償金が没収されたそうである。前頁のアペリコンもそうだったが、大金持ちでも稀覯本のためとなると泥棒の様な真似をするものらしい。
ホメロスを今の24巻に分割したのは文献学者の初代館長ゼノドスだった、とか書誌学上の逸話にも事欠かないがキリがないのでこのあたりで切り上げる事にした。
図書館自体の消滅についても諸説ある。カエサルの侵攻時、ゼノビアのアレクサンドリア攻略時だというものから地震による倒壊説まで、こちらも議論百出だ。上にあげたシルヴェストル・ド・サシの説は少々複雑だが、一般的にコンセンサスがあるのは次のようなものだろうか。
まず、カエサル侵攻時の有名な火災は何とかしのいで、その後もローマ帝国の下で存続し続けた。そして実際に滅びたのは4世紀末以降の「キリスト教徒による被害」の時であり、大司教の扇動によるヒュパティアの虐殺(415年)などは広く知られている。同地セラピス地区にあったセラピオン別館も同時期にやはりキリスト教徒に破壊された。391年にテオフィロスがテオドシウス一世の許可を取り付けてセラビス神殿と図書館への攻撃略奪を命じた、と複数の歴史家の証言が存在する。
◆ ぺルガモン神殿図書館 紀元前二世紀創立 Library of Pergamum
古代世界の二大図書館のもうひとつがこれ。こちらは小アジアのアッタロス朝アッタロス一世が作り、その子エウメネス二世以降歴代の諸王が拡大していった(エウメネス二世が設立したという説もある)。
この図書館があのムセイオンと蔵書数を競い合った激しさはもう語り草である。
例えばこんな話もある。ぺルガモン出身だったかのガレノスがある時この図書館で大量の偽書をみつけた。その中にデモステネスの未発表談話と銘打たれた贋作があった。ところがライバルのアレクサンドリア図書館ではすでにその贋作のコピーまで作っていたという。
とりわけ重要なエピソードは、エウメネスがアレクサンドリア図書館の館長だった文献学者アリストファネスを引き抜こうとした時のものだ。プトレマイオスがアリストファネスを獄に投じてこれを防いだ。そしてこの確執によりエジプト王朝がパピルスの輸出を止める。それによってぺルガモン図書館が羊皮紙を使い始めた事は、本の歴史にとって後々非常に大きな意味を持ってくる伝承である。羊皮紙の生産自体はそれ以前からあったが、parchmentという言葉自体がベルガモンにちなんでいる意味は重い。
このエウメネス二世は長年かけて20万ないし30万の羊皮紙写本を集めたとされた。ちなみにカルヴィシウスの言葉によれば所蔵数は20万巻となっている。羊皮紙とパピルスはキャパシティが全然違うので、アレクサンドリアとの比較は単純に70万対20万では語れない。
プルタルコスによれば、紀元前1世紀にアントニウスがぺルガモン王国を攻略した際に、ぺルガモン図書館の蔵書20万巻をクレオパトラに進呈してカエサルの時に焼けた分を補ったという。いかにもアントニウスがやりそうな事だがプルタルコスの言う事だから事実かどうかわからない。のちアウグストゥスが一部を返却したが、これ以後、往年の威信は取り戻せなかったとのことである。ただローマ皇帝の統治する時代になった以後も、アレクサンドリアとここぺルガモンは、ローマ時代に設立されたセルシウス図書館と共に世界の三大図書館と称されている。
ヘレニズム期の二大図書館と言えばまず上の二つですが、他の王朝についてもみてみましょう。とりわけアンティオキア図書館はこの時期大きな存在でした。
◇ セレウコス朝 アンティオキア図書館 Seleucid Empire Library of Antioch 221 BC~
旧アレキサンダー帝国の分割されたピースのうち最大版図を誇ったセレウコス朝も首都に王宮図書館を作っていた。アンティオコス三世による設立で、王は同時に美術館や劇場も建設した。(アレキサンドリアはムセイオンの附属だしぺルガモンは神殿に付設されているので王家所有であっても◆印を付したが、こちらは王宮図書館という事以外にさしたる属性はなく◇印を付けて置く)
ヘレニズム文化の中心アンティオキアにあっただけに当時はぺルガモン図書館よりも有名だったといわれるが、セレウコス朝が急速に領土を縮小したためか情報はそう多くはない。同じギリシア系のプトレマイオス朝の図書館に比べて地味な存在なのは大学化したためだという説もあった。
ローマ時代になって背教者ユリアヌスがここの異教文献を充実させたことで、363年クリスチャン皇帝ヨウィアヌスによって破壊された、というのがその終焉らしい(英語版wikiにもそう書いてる)。ただそのアンティオキア図書館はまた別の図書館のことであるという異説もあり(ホルスト・プランクなど)、確かに600年近くも存続し続けていたにしてはこの図書館に関する情報が少なすぎる気がする。
図書館設立以前のセレウコス朝には少々気になるエピソードもある。マル・イバスという紀元前2世紀の著述家は、初代セレウコス一世が即位にあたって新しい時代を幕開けするために本をすべて焼き払ったと書いていた。
◇ マケドニア フィリッポス二世 Philip II of Macedon 382 BC – 336 BC
ギリシア都市国家の時代を終焉に導いた人物でありアレクサンダー大王の父でもある。なので時期はヘレニズムより若干前になる。彼もペラに図書館を設立していた。20歳で位を継いだアレクサンダー大王は二年後に遠征に着手しているので堪能する時間はなかったであろう。しかし成長期に影響された可能性はある。
このアルゲアス朝の蔵書がアンティゴノス朝へ引き継がれたかはよくわからない。アンティゴノス朝では最後の王ペルセウスがローマの将軍パウルスによって奪われている。
◇ シュラクサイ ヒエロン二世 Hiero II of Syracuse 308 BC – 215 BC
船上図書館。これはほぼ伝承上のものである。アルキメデスがヒエロン二世のために豪華船アレクサンドリア号の中に書庫を作った話という伝説が残っている
◇ ポントス王ミトリダテス Mithridates VI 135 BC – 63 BC
小アジアにあった王国の半ギリシア系国王である。支配下の22民族の言葉を解したと言われる文武両道の名君だったがローマに滅ぼされた。将軍ルクルスに奪われたその蔵書はローマが奪ったギリシア系諸国家の書物のうちで最も輝かしいものとみられている。
王朝以外ではエピクロスのものを挙げておきます
◇ エピクロス Epikouros 341 BC – 270 BC
彼の学園の蔵書も良く知られている。
やはりアレクサンドリア図書館の影響なのか、この時代の地中海沿岸には書物を集めているところが多く、ローマに征服されるときアパミーの町には蔵書2万巻の図書館があったし、エフェソス、タルス、スミルナなどの神殿図書館はローマ期にも続いています。紀元四世紀にはアテネでも公共図書館ができました。
他に、ギリシアのコス島や小アジアのミサラなどの図書館もよく知られた存在でした。金でできた書物を収めたデルフォイの図書館に関する伝承も残っています。
それともうひとつ、ヘレニズム期のギリシア系国家における書物蒐集には、のちにローマに奪われてその初期の蔵書を形成したものが多いです。マケドニア朝、ポントス王ミトリダテス、前頁に記載したテオスのアペリコンなど。
<トピック1 図書館と偽書>
ヘレニズム期に設立された二大図書館の争いが、パピルスから羊皮紙への転換の端緒となった次第を上に述べました。しかしこの争いはもう一つ皮肉な副産物も産んでいます。
Aグラフトン、カルダーノを介しての曽孫引きゆえ少々恐縮ながら、かの医聖ガレノスによれば、西欧の古典に偽書の多いのはぺルガモンやアレクサンドリアのような古代の大図書館を作った王たちが、高名な著述家の著作となると大枚をはたいてこれを買い求めたためだといいます。 なるほどアリストテレス全典中の「経済学」だのああした書物が生まれたのはそういう事情によるものだったかと合点はいったものの、すでにローマ盛期のガレノスの時代に既にそうした偽書は巷間溢れていたという事らしいです。
では我が国の場合はどうだったのか? 江戸期に前田や水戸徳川が大枚をはたいて書を集めていた頃、その為に偽書が多く出たなどという話は寡聞にして聞きません。伝[良源]の著述なども単に叡山堂内に於ける権威付けの為に書かれたものでしょう。
ところで偽書ではあっても、偽デュオニシオスアレオパギタの様に後世に深甚な影響を与えた本も少なくありません。
内容的に優れたものだってあります。ペトルス・ヒスパヌスの「論理学論集」は、オルガノンがフォローしてなかった領域を開拓した中世論理学の精髄とも言うべきものですが、これもヒスパヌスの真筆は論文5本のうち2本だけだとのこと。一般的にアリストテレスの「オルガノン」はフレーゲの諸業績まで論理学史上においてその内容を更新されなかった不磨の大典と思われがちですが、これら3本の偽書論文においては「噓つきのパラドックス」や現代の命題論理学に相当する内容がもう展開されているんです。
また、こういう例えを持ち出すと眉を顰める方も居られるかもしれませんが、聖書でも、あれはペテロやパウロに自らを擬した無名著述家によるテクストから構成されているわけであって、文献学的には「偽書」という事になりはしないのか・・・ しかしこれに対する回答は「聖書は『本文学』の対象であって『文献学』の対象ではない」ということらしく、宗教的聖典の場合は結局無罪放免という話に落ち着くようですね。
<トピック2 図書館によるセレクト>
もうひとつ、こうした大図書館の存在が生んだといえる風潮をあげて置きましょう。 それはそれらの集めた書物、推薦した書物にみられた「偏向」です。
アレクサンドリア図書館の蒐集に特徴的なのは、特定の作家や特定の古典作品ばかりを集めようとする点でした。そういった作品に関しては作品概説まで備わって非常に充実していました。
アレクサンドリア図書館は副本が多かったことでも知られますが、おそらくオススメのものに関しては少なからぬ数が備わっていたはずです。その反面、そうではないものに関してはその限りではなく、これが後の散逸や忘却に拍車をかけることにつながりました。
一例をあげると、叙事詩ではホメロスとヘシオドスが二大詩人としてオススメのトップにきていて、これは昭和日本の岩波文庫にまで引き継がれています。(ホメロスは頷けますが、ヘシオドスはなんでだろう?と管理人も昔から思ってました)
抒情詩では、ピンダロス、バッキュリデース、サッフォー、アナクレオン、ステンコロス、シモーニデス、イビュコス、アルカイオス、アルクマアンが従来ギリシアの九大歌唱詩人とされてきたのも、アレクサンドリアでの選定です。こっちのセレクトも岩波文庫で呉茂一が編んだ「ギリシア・ローマ抒情詩集」に基本が引き継がれています。というか、他の詩人のものがあまり残らなくなっちゃったんですね。
詩劇でも、ソフォクレスの120もの作品のほとんどが散逸したのは、七大名作の読破が推奨され、その結果、他のものに関心が集まらなかったためだそうです。
このブログでは、古代の古典作品の散逸の原因として初期キリスト教社会を強調しすぎたきらいがありますが、このような書物をセレクトする側の営為もそれに一役買ってたようです。
<トピック3 早わかり本>
また当時の著述家もやたらと書物の選定に関するオススメ本の類を出していて、例えば、ビブロスのフィロンは「書物の入手と選定」12巻を出版し、ぺルガモンのテレフォスも「本の鑑定」3巻に自らの推薦リストをつけていたとの事です。そして、そういった本で多く取り上げられたものは後世にも残り、取り上げられなかったものはあまり残らない傾向がありました。
これは現在の日本の出版状況に酷似しています。「必読100冊」とか、その種のものは無数に出版されているからです。ただ、目の前の膨大な本のどこから読み始めてよいのか、初心者は誰でも迷うと思うのでこうした企画はそれなりに有用であり、一概に悪と決めつけるわけにもいきません。
とにかく、人類の歴史上いまだかつてなかったような膨大な情報にアクセスできるようになった時、人は一体どのような対応をとるのか? 紀元前三世紀においては、それはこういう顛末をたどったようでした。あとで、やはり欧州の蔵書がいまだかつてないぐらい急激に増加した16世紀(これはもうヘレニズム期どころではない)に筆を進める予定にしていますが、その時には人々は「レファレンス書」という方法を模索しています。
トピック2と3はフェルナンド・バエスの著書からのデータが大半です。最後にそこでも引用されていたルードヴィッヒ・ヴィーラーの言葉をもってこのページを閉じましょう。
「書物の消滅とりわけ広範囲にわたる作品の消滅の原因の一つは三世紀に流行した現代の早わかり本やダイジェスト版の先駆けである概説書の登場であった」
総目次
◇まずお読みください
◇主題 反町茂雄によるテーマ
反町茂雄による主題1 反町茂雄による主題2 反町茂雄による主題3 反町茂雄による主題4
◇主題補正 鏡像フーガ
鏡像フーガ 蒐集のはじめ 大名たち 江戸の蔵書家 蔵書家たちが交流を始める 明治大正期の蔵書家 外人たち 岩崎2家の問題 財閥が蒐集家を蒐集する 昭和期の蔵書家 公家の蔵書 すべては図書館の中へ
§川瀬一馬による主題 §国宝古典籍所蔵者変遷リスト §百姓の蔵書
◇第一変奏 グロリエ,ド・トゥー,マザラン,コルベール
《欧州大陸の蔵書家たち》
近世欧州の蔵書史のためのトルソhya
◇第二変奏 三代ロクスバラ公、二代スペンサー伯,ヒーバー
《英国の蔵書家たち》
◇第三変奏 ブラウンシュヴァイク, ヴィッテルスバッハ
《ドイツ領邦諸侯の宮廷図書館》
フランス イギリス ドイツ イタリア
16世紀 16世紀 16世紀 16世紀 16世紀概観
17世紀 17世紀 17世紀 17世紀 17世紀概観
18世紀 18世紀 18世紀 18世紀 18世紀概観
19世紀 19世紀 19世紀 19世紀 19世紀概観
20世紀 20世紀 20世紀 20世紀 20世紀概観
仏概史 英概史 独概史 伊概史
◇第四変奏 瞿紹基、楊以増、丁兄弟、陸心源
《清末の四大蔵書家》
夏・殷・周・春秋・戦国・秦・前漢・新・後漢 三国・晋・五胡十六国・南北朝 隋・唐・五代十国 宋・金・元 明 清 中華・中共 附
◇第五変奏 モルガン,ハンチントン,フォルジャー
《20世紀アメリカの蔵書家たち》
アメリカ蔵書史のためのトルソ
◇第六変奏
《古代の蔵書家たち》
オリエント ギリシア ヘレニズム ローマ
◇第七変奏
《中世の蔵書家たち》
中世初期 カロリングルネサンス 中世盛期 中世末期
◇第八変奏
《イスラムの蔵書家たち》
前史ペルシア バグダッド カイロ コルドバ 十字軍以降
◇第九変奏 《現代日本の蔵書家たち》
本棚はいくつありますか プロローグ 一万クラスのひとたち 二万クラスのひとたち 三万クラスのひとたち 四万クラスのひとたち 五万クラスのひとたち 六万クラスのひとたち 七万クラスのひとたち 八万クラスのひとたち 九万クラスのひとたち 十万越えのひとたち 十五万越えのひとたち 二十万越えのひとたち エピローグ TBC
◇第十変奏 《現代欧米の蔵書家たち》
プロローグ 一万クラス 二万クラス 三万・四万・五万クラス 七万クラス 十万・十五万クラス 三十万クラス エピローグ1 2
◇第十一変奏
《ロシアの蔵書家たち》
16世紀 17世紀 18世紀① ② ③ 19世紀① ② ③ 20世紀① ② ③
Δ幕間狂言 分野別 蔵書家
Δ幕間狂言 蔵書目録(製作中)
◇終曲 漫画の蔵書家たち 1 2
◇主題回帰 反町茂雄によるテーマ
§ アンコール用ピースⅠ 美術コレクターたち [絵画篇 日本]
§ アンコール用ピースⅡ 美術コレクターたち [骨董篇 日本]
§ アンコール用ピースⅢ 美術コレクターたち [絵画篇 欧米]
§ アンコール用ピースⅣ 美術コレクターたち [骨董篇 欧米]
§ アンコール用ピースⅤ レコードコレクターたち
§ アンコール用ピースⅥ フィルムコレクターたち
Θ カーテンコール
閲覧者様のご要望を 企画① 企画② 企画③ 企画④
fleck 5600 price 2020年4月6日
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