蔵書家たちの黄昏

反町茂雄の主題による変奏曲

[213] イスラムの蔵書家たち 十字軍以降

《5 十字軍以後》

 

 

 

 


① セルジュークトルコ成立以後(1038年 – 1194年)

 

 セルジューク朝では、下記のメルヴ市の図書館群があまりにも有名すぎて、王朝の蔵書もニザーミヤ学院の蔵書もよく分かりませんでした。
 ここはテュルク系イスラム国家でありながら、ペルシアを中心に中東を広く支配し、ビザンツ領の大半を征服した事から十字軍の原因にもなっています。それまでギリシア語圏だったトルコはこれ以後イスラム圏に入ってしまいます。
 王朝の出自自体は遊牧民族であっても宮廷の公用語はペルシア語で、ペルシア系詩人によるサロンが形成されていた事で知られます、かのガザーリーが教鞭をとったニザーミヤ学院の方もは眼科学をはじめとして当時の科学の最先端をいってました。なので書籍収集でもそれなりのものが予測されるわけですが、管理人の非学のため今回は留保となります。気が向いた時に再度ご覧頂けたら記述があるかもしれません。

 

 


 ◆ 中央アジア メルブ図書館群 مرو الشاهجان Merv
 現在ではトルクメニスタン領内に位置するが、イランとの国境付近であり歴史的にもペルシア語圏の都市である。紀元前六世紀のアケメネス朝時代から史料に残り、交易の要所として栄えてきた。、
 メルブはセルジューク朝時代に最大の栄華を誇ったとされ、一時期、その首都にもなっている。この頃はシルクロードのオアシス都市というイメージとは裏腹に、人口100万と称される当時世界最大クラスの大都会であった(現在の推定では50万)。かのオマル・ハイヤームも当地で天文台長を務めている。
 市内には数万冊の蔵書を誇る図書館が8つもあった、あるいは1155年の時点で10の公立図書館が存在しうちひとつが1万2千冊の蔵書を保有していたなどの記述が残り、書に満てる様子が伺える。その中にはニザームアルムルクの設立にかかるものもある。
 このオアシス都市は中央アジア最古の都市とされるだけあって2千年近い歴史を持っており、大昔ササン朝ペルシア最後の皇帝ヤズデギルド三世(在位632-651)が逃げてきた時に、様々な都市から写本全集やパフラヴィー語の書物を携えてきたため、そうした写本がこの時期まで残っていた可能性も考えられる。事実ヤクートの指摘によるとメルヴの図書館のうちにはササン朝が設立したものも存在したらしい。
 最後にはジンギスカンによる1221年の虐殺で街自体が全滅してしまった。この時はモンゴル兵一人当たりに3~400人を殺すよう割り当てられていたという。それ以降勢威は回復せず、現在は中央アジア最大のゴーストタウンである。

 11世紀前半では
 ◇ シュレフ・アル・ムルク・イブンの個人図書館が知られている

 12世紀には
 ◇ アジズ・アド・ディン・アブ・バクル・アティク・アル・ジンジャニ・アジジャの個人図書館。彼はセルジュク朝の廷臣だった
 ◇ アブ・サイード・アブドゥルケリム・イブン・ムハンマド・アル・サーマーニは、二つの文庫を所有していた。

 

 

 


 次はペルシア山間部にあってセルジューク朝に抵抗し続けた宗教教団の教祖の蔵書を紹介します。

 ◇ イブン・サッバーフ حسن صباح Hasan-i Sabbāh 1050-1024
 シーア派の急進派であるニザール派のハサン・イブン・サッバーフとその後裔たちによる凡そ150年に渡る集書である。
 彼はアムラート山の砦を根拠に神権政治を敷き、実質的には暗殺団や盗賊団に近い存在だったようだ。もとはファーティマ朝のカイロの宮廷で研究生活を送る学究であったが、セルジュークトルコに対する敵愾心から1090年にアムラートの砦を奪取して以後はそこから一歩も出ず、方々に暗殺者を派遣して様々な要人を殺し、山岳域から二ザール派の勢力拡大に貢献した。
 サッバーフは最盛期のファーティマ朝「知識の家」の書にも触れただけあって諸学に通じ、教学のみでなく数学、魔術など博覧強記だった。文庫にはハサンの信奉者たちによって珍しい文献が多く持ち込まれた。
 しかし残った逸話からは、美女を集めて麻薬で若者を砦に誘い込み、などとやる事は当今のISISとあまり変わらない。暗殺者を意味するアサシンという言葉の語源が麻薬なのも、彼にちなんでの事である。映画化されてもおかしくないぐらいのキャラクターだが、シーア派最過激派のためそういうものはみた事がない。
 八代目の1256年、モンゴル軍によってこの山上の砦は陥落した。蔵書は有名だったらしく、モンゴル軍も砦を攻め落とす直前に人を派遣してその調査をさせている。
 内容は、まず大量の詩歌集や天文学書であり、一方、スティーヴン・ランシマンは膨大な数の哲学・神秘学の文献があったとも述べていた。 シリアの年代記作家のアリフ・タミルはその数150万冊としているが、別の史料では20万冊になっている。とにかく12世紀から13世紀にかけてのペルシアで最大級の蒐集が、暗殺教団の山岳砦にあった事は驚くべき事かもしれない。

 

 

 

 

 

 


② オスマントルコ成立後(1299年 – 1922年)

 このあたりから少し潮目が変わります。
 イスラムにおける書籍蒐集の傾向に明らかな変化が見えるので、それを前もって説明して置くために、今までのおさらいも兼ねて長い長い概説 ≪トピック≫ を設けました。分かってる人は飛ばしてください。

 


≪トピック≫ イスラム世界における写本の隆盛と印刷導入の遅延

 普通、日本の人は(欧米人も?)イスラムのことは、それほどよく知りません。(書物の事情などに関しては何をかいわんやです)
 なので、イスラム世界が19世紀まで、ほとんど写本オンリーで来て、印刷という技術を使用することがなかった、とお聞きになると、驚かれるかもしれません。
 イスラムの出版界では印刷の導入が遅れ、1795年以降にそれが徐々に導入されるまでは、すべての書籍は筆で書かれた写本でした。20世紀ですら、写本に頼る伝統が残っていました。
 原因は宗教上のことで、コーランを不正確に印刷する事への危惧です。19世紀も末になって、やっと聖職者の中にコーランを印刷する事への抵抗が少なくなりだし、1923年初めてその刊本が公刊されました。
 こうした事情から、イスラムにおける写本文化は、8世紀末から18世紀に至るまで、およそ1000年にも及びました。この間筆耕の地位が高くなり、筆写という行為には高い価値が認められるようになります。それがまた、写本文化を継続する圧力にもなりました。

 以上述べたことは、イスラムにおける個人蔵書の有り様を考える上で、非常に重要です。
 古典時代にピークを迎えたイスラムの蔵書文化が、その後それなりの繁栄を享受していたとはいえ、欧州のそれに比べると伸び悩んだ印象を与えているのは何故か? 特に量の面でこれが顕著なのは、印刷の導入が極端に遅れたことと関連性を持つのか? あるいはこうした事情は、イスラムにおける蔵書文化に、何か別の特徴をもたらさなかったか?  月並みな着眼点ですが、以下にそういう諸点をみていこうと思います。
 まず、イスラム篇で今まで語ってきたことをおさらいして、その書物文化が隆盛した原因を確認してみましょう。管理人には、大きなものだけで四つぐらい思い当たります。

 一、イスラム教の成立から、イスラム帝国の覇権、イスラムによる世界的商業圏の確立、イスラム独自文化の形成などが、わずかな期間に次々と連鎖的に起こった点で、イスラムというのは歴史上非常に特異な文明です。大量の書物を集めるのにはまず経済力や政治権力が必要であり、寂れてゆく西洋に比べて、イスラムはまさにその条件を満たしていました。
 
 二、紙の導入が早かった点。これは唐との戦(あるいはそれ以前からの交易)による賜物ですが、これもコストの高い羊皮紙を近世になるまで使い続けた西欧との差を生みました。

 三、イスラム教が伝統的に知識拡大に寛容であった点、これも西洋中世のキリスト教がギリシアローマ以来の古典文明の大半を葬り去った事情と比べて対照をなしています。
 
 四、社会や経済、技術や思想に関する以上の3点はよく言われますが、一番基本的なのは、イスラムが、ギリシア以来の知を受容しうる環境にあった事かもしれません。
 イスラムにおける集書は、先進的なペルシア文化を受け継ぐところからはじまりました。アッバース朝の宮廷図書館も、初めはペルシア語文献の収集が中心です。
 理由は、この時期までのアラビア語はもっぱら遊牧民の使う土俗的な言語であり、これ以前に、他の文化圏に抜きんでた学芸を生み出した記録は、ほとんどなかったからです。というより、文書と言えるもの自体あまり見当たらず、4、5世紀に簡単な碑文があったぐらいでした。
 アッバース朝の図書館には、ペルシア語文献をアラビア語へ翻訳する機能があり、その意味でこの場所は、アラビア語という言語を、延いてはイスラム文化を豊かにしていく場となっていました。
 実はそのペルシアにも、過去にはこれと同様の経緯がありました。
 なぜならペルシア語文献にも、旧ローマ帝国からキリスト教徒の弾圧を逃れてきた学者たちによって、ギリシア・ローマの古典的な学芸が導入されていたからです。やはりペルシアのグンデシャープールなどでもギリシア語をペルシア語へ翻訳する機能を担っていました。
 さらに言うと、そのローマに於いても、これらに似た事情はもっと昔にあったわけです。
 かつてのローマにおける大きな蔵書は、当初ギリシアからの収奪品で構成されていました。図書館もギリシア語文献が中心でしたが、時代が下るにつれてラテン語文献との比率が逆転してゆきます。このあたりの事情はどこでも同じですね。
 つまり、ギリシア語,ラテン語,ペルシア語,アラビア語と、先進地域の文化が言語を通じて、また蔵書(機関蔵書・個人蔵書)の蒐集やその翻訳を通じて継承されてゆく流れが、古代から中世にかけてはこのようにかなり明瞭に表れており、その事は、この時期までのインダス川以西の知の重要部分がイスラムへ流れ込んでいた事をまぎれもなく意味しています。
 (ちなみにアッバース朝の図書館は初めの頃にはギリシア語文献をペルシア語に訳したものを更に自国のアラビア語へと翻訳するような事をやっていましたが、のちにはギリシア語文献を直接アラビア語に翻訳しています。これも以前該当箇所で述べました)

 結果的に、イスラム世界は、書物の蒐集に関しては個人蔵書・機関蔵書ともに、このブログの中世篇で語った西洋中世とは極端な対比をみせました。で、ここからの話になります。
 中国における出版が、唐から宋にかけて、紙と印刷の二つの武器を所有する体制になったのに対し、中東は紙は持っていても印刷はありませんでした。一方、西洋は紙も印刷もなく、羊皮紙と筆写という最もコストのかかる体制でした。これが近世へ移行する前の三つの文化圏における出版事情です。
 ところが近世に入るやいなや、西洋がこの二つの武器を備える体制に変わり、俄然蔵書を拡大し始めます。一方イスラムは依然印刷は無いままです。イスラムが印刷という方法を選ばなかったのは、別にその技術がないからではなくて宗教上の問題です。だから200年たっても300年たってもこの状況は変わりません。
 西欧世界は近世に入ると、地中海側に向けて政治的にも経済的にも急速にプレゼンスを拡大しますから、この両面でもイスラムは押され気味、縮小気味になってきます。彼らははさらに喜望峰を回り、イスラムの背後にあるインドや中国に接触して、南北アメリカも含めて世界全体を支配する体制への移行を完了します。
 この時点でアジアとヨーロッパを隔てる交通の要所としての地理上の利点はなくなり、社会・経済的な優位も消滅しました。既に紙を持ってない様なところはどこにもないし、この時期になると西欧の知識欲は他のどこよりも甚大なものとなっています(宗教改革以後のプロテスタンティズムは、本来書物を排撃した初期キリスト教に近い性格を持っていますが、これがなぜ知識への希求と両立したのかは西欧近世篇で述べます)。ギリシア以前の知の所有という面でも、12世紀のアリストテレス導入以降西欧が自らの失われた遺産を回復し、それに改良を加えた事で、もはや優位はありません。彼らがのちの17世紀に自然科学で原理的な革命を成し遂げ、18世紀産業革命で技術を国力増強につなげる事に成功したのに対し、それに伍することは何も成し遂げられず、二十世紀初頭まではこれを受容する事さえできませんでした。  上にあげた四つの条件はすべて消えたわけです。
 そうは言ってもイスラムは高度な文明を持ち、イベリア半島も領有し、大量の白人奴隷すら使用していたような勢力です。近世以後でもウィーンへ攻め込んでるほどです。勢力が大幅に縮小したとはいえ、新大陸の様な奴隷的な植民地化はまず不可能でした。イスラム世界の内外で激しい戦乱は従来通り繰り広げられてはいても、外部からの文化的な操作はあまり受けない環境です。
 こうした状況下にあって、イスラムにおける蔵書の有り様、というか、興味・関心の方向に徐々に変化が見え始めます。

 「才能は静けさの中で作られ、性格は世の激流の中で作られる」(ゲーテ)

 印刷技術が使用できない以上、イスラム社会における写本出版のシステムは極めて効率化されていました。オスマン朝支配下のイスタンブールには2万人からのプロの筆耕がいたといいます。そこでは客の注文に応じて一冊から製作販売されていました。本は買うものではなく、作るもの、作らせるものであって、日本でも昭和のある時期までそうだったようにスーツを仕立て屋に作らせるような感覚だったのだと思われます。(これは多品種少量生産の極致であり、今の日本の書籍出版界が年々この傾向を強めている事情に鑑みると、かつてイスラム世界の書籍文化で生じた諸現象を研究するのはこの現代においてもそれなりに意義あることかもしれません) 
 こういう感覚の中で育つと、アマゾンマーケットプレイスで一円注文してすぐに捨ててしまう今の日本の環境こそが異様に映るでしょう
 つまり、イスラム世界では本は寂れたというのではなしに、独自の写本文化が栄えていた、という言い方をした方が正確です。
 そうは言っても、イブン・アサーキル(1105-)の有名な「ダマスカス史」全80巻には10人の筆耕が2年かかったというエピソードに端的に示されるように、一冊あたりのコストは羊皮紙を使用していた西洋中世までいかずとも、下げれる限界というものがありました。盛期イスラムが独占的に保持していた三大陸にまたがる商業圏が縮小されてゆく過程では、かつての様な冨貴の人士が陸続と登場するというわけにもいかず、社会が生み出せる本の総数も下がってきます。

 私は「一冊一冊を大事にする」方向へ、イスラムは向かっていったんだと思います。これは必然的に「一冊一冊を飾り立てる」方向につながってゆきます。
 その結果的として、以下でみてゆくことになるティムール朝やオスマン朝のケースのように、この時期のイスラム世界における蔵書を現在の私たちが話題にする場合、テーマは写本装飾の美術とアラビア書道の二つになってしまうんです。
 近世初期の西欧でも、この種の「本を飾り立てる愛書家たち」の潮流が誕生しましたが、イスラムとは大きな違いが二点あります。
 それはイスラムにおける本を飾り立てる事への傾斜が、社会全体の蔵書量を縮小させていく過程で生じたのに対し、西欧におけるそれはむしろ蔵書量の爆発的な拡大とともに生まれている点です。(この原因も 西洋篇 で述べます)。
 もう一つの点は、装飾のやり方についてです。かつてエリク・ド・グロリエの語ったように、本に関する美術は二つに大別され、一つは挿絵でもう一つは直接本を飾る装丁です。イスラムはどちらかというと、挿絵の細密画やアラビア書道のような「ページの中」に重きを置き、これに反して、フランスをはじめとする西洋の愛書家たちは、モロッコ皮だの、金箔押しの蔓草模様だの「書物の外装」である装丁の方に傾きがちでした。(ともに源流は恐らくビザンツにあり、ここはあとで ビザンツ篇 で再論する事にします)

 ここまで何かの業務妨害のように長々と喋ってきましたが、さすがにそろそろ蔵書家を紹介しなければなりません。
 盛期イスラムの巨大な書物集積には、バグダッド、カイロ、コルドバと相次いで成立した三つの中心地があったように、写本芸術における細密絵画にも、ペルシア、トルコ、インドという三つの中心地が存在しました。前の三つがそうであったように、後の三つも主力はその地の王朝です。 書の集積量を誇った三つの中心地がバグダッドから主にイスラム圏の西側へ延びているのに対し、細密画挿絵における三つの中心地がイランを中心にイスラム圏の東側に重心があるのも興味深いです。
 まずバグダッドで13~14世紀にビザンツからの影響を受けて(中国からの影響も後で加わる)イスラム独自の細密絵画が生まれました。それがティムール朝の支配するイランで花開き、この技術がオスマントルコや、インドのムガール朝へ流れてゆきます。 以下で、Ⅰペルシア、Ⅱトルコ、Ⅲインドの順に、この経過をもう少し詳しく辿ってみましょう。

 

 

 


Ⅰ ペルシア


 ◇ ティムール朝 宮廷図書館 تیموریان‎、Timurid Empire
 ティムールの孫で愛書家・能書家でもあったバーイスングル・ミールザー(1397-1420)がヘラートに設立し、ここは豪華な写本を製作する工房でもあった。
 館長はジャアフル・タブリーズィー。タブリーズから画家や装丁家が招聘されて装飾写本の制作にあたった。ミールザーの死後、図書館のスタッフはサマルカンドへ移った。
 スルタン、フサイン・バイカラー(سلطان حسین بایقرا Sulṭān Ḥusayn Bāy-Qarā 1438-1506 在位1469-1506)の時代にヘラートの宮廷図書館はまた勢いを盛り返す。この時期の館長は学者でも司書でもなく、画家のアミール・ルーフッラーであり、この当時の図書館は写本工房としての性格の方が強くなっていたことを伺わせる。

 

 

 ティムール朝に代わってサファヴィー朝がヘラート周辺を支配するようになると、その製本技術や写本芸術はサファヴィー朝に移されました、さらにこれらはオスマン朝や、インドのムガール朝に伝わってゆく事になります。

 ◇ サファヴィー朝 宮廷図書館 صفويان‎ Safavid dynasty
 第2代タフマースブ1世(Tahmasb I شاه تهماسب یکم‎,1514-1576 在位1524-1576)によって設立された。ここで館長をつとめたビフザード(کمال‌الدین بهزاد‎、Kamal al-din Bihzad 1455-1530)はイスラムを代表する細密画家で、ティムール朝の宮廷図書館の館長だったルーフッラーの弟子にあたる。

 

 

Ⅱ トルコ
 ここも写本工房はヘラートの装飾技術の影響下にあります。

 

 ◇ オスマン朝 宮廷図書館 دولتِ عليۀ عثمانيه‎ Ottoman Empire
 トプカプ宮殿内の写本工房は、オスマン朝の写本文化の粋を極める。
 歴代皇帝のうち重要なのは12代ムラト3世(Murad III, 1546-1595 在位1574-1595)と、23代アフメト3世(Ahmed III, 1673-1736 在位1703-1730)の二人。
 アフメト三世のトプカプ宮殿には3500冊の写本があった。言語はアラビア語・ペルシア語・トルコ語など。

 


 オスマン朝においては本屋には二種類あり、注文を受けて写本を製作する店をムジェッリドといい、古書を扱う店をサッハーフと言いました

 ◇ ラーグプ・メトメト・パシャ
 だいぶ時代は下るが18世紀イスタンブールを代表する蔵書家である。書記官僚出身の宰相。当代一の知識人で美文や詩作で知られる。
 晩年図書館を作り、蔵書をそこへ寄付した。トプカプ宮殿博物館に伝わる目録には904点あり、うち六割をイスラム諸学の書が占める。

 


 1799年に英国のエルジン卿がトルコ大使になったとき、宣教師のカーライルを派遣してイスタンブールの著名な諸文庫を調査させたそうです。この時はビザンツ時代以来のラテン・ギリシア・ヘブライの書が残ってないか、という関心から行ったものですが、そういうものはほとんどありませんでした。
 ちなみに当時のオスマン皇帝の文庫には1294冊ありました。

 

 

 


Ⅲ インド
 最後はインドを支配したイスラム王朝であるムガール朝です。

 

 ◇ ムガール朝 宮廷図書館 ‎ شاهان مغول‎ Mughal Empire
 ムガール朝の王宮図書館では、2代フマーユーン( همايون‎, Humāyūn 1508-1556 在位1530-1540,1555-1556)の時にサファヴィー朝の画工たちが到来する。ちなみにこのフマーユーンは図書室の階段から足を滑らせて亡くなった話が有名だ。
 3代アクバル( جلالالدین محمد اكبر‎, Jalāl’ud-Dīn Muhammad Akbar 1542-1605 在位1556-1605)は父の工房を受け継ぐが、この頃の宮廷では図書局が置かれて蒐集の管理と共に写本製作が行われていた。主にペルシア語の文献が多い。彼の没後には2万4千冊の写本が残されることとなった。ちなみにこの皇帝は字が読めなかったが、毎日自分で本を選んでそれを召使に読ませている。
 以降の歴代君主では、4代ジャハーンギール( نورالدین جهانگیر‎,Nūr’ud-Dīn Muḥammad Jahāngīr 1569-1627 在位1605-1627)と、5代シャー・ジャハーン(شهابالدین محمد شاه جهان‎ Shehābo’d-Dīn Moḥammad Shāh Jahān 1592-1666 在位1628-1658)の二人が特に写本や絵画に関心を向けた。
 しかし、奢侈を禁じた厳格な6代アウラングゼーブ( اورنگزیب‎ Aurangzēb 1618-1707 在位1658-1707)以降、画家たちが流出して写本文化は衰えた。禁欲的なこの王朝では音楽演奏すら禁止される。彼の治世は半世紀も続いたので、以後装飾写本の文化は復活することはなかった。画家たちは主にラージャスタン地方の王族の工房へ移っている。

 

 

 


 

 以上三つの宮廷の図書館を紹介しましたが、これはもう写本工房が中心で、図書施設というより美術館に近いですね。それぞれの細密画の特徴などは管理人ではあまりよく分かりません。インドに関しては一昨年デリーとカルカッタの二大国立博物館でその最上のコレクションの実物を目にしてますが、こちらの教養が追い付かず、古代から現代に至るインドの厖大な古銭の蒐集の方が面白かったです。 なので、エリク・ド・グロリエ「書物の歴史」から三つの細密画の対比の部分を抜き出してみます。フランス人の書く文章の常として、形容が多すぎて、何が言いたいんだかよく分からないきらいはありますが・・・
 「本質的に装飾的であり、グァッシュでデリケートな色調に描いたペルシアの細密画は詩人たちの作品を何よりもまずその玉虫色に光る場面で飾ることに専念する」
 「インドの細密画はペルシアの伝統に多くを借りながらも、それとは別に進化してゆく。独特な自然と社会との忠実な鏡として、インドの細密画は遠近法と浮き上がりとの効果を探求し、肖像画に専念して、騎馬の肖像画を描く」
 「トルコの細密画はフランスの偉大な彩色家のに劣らず精妙な花飾りを、おどろくべき効果のある能書に見事に結び付けている。その肖像画はインドのそれに匹敵し、写実という点では恐らくインドの肖像画にまさっており、その狩猟や戦争の場面には無類の動きがある。それから18世紀初頭では、デリケートで、上品で、優雅な芸術が発達するのが見られる」

 

 近世初頭までに西欧で生産された写本は消失したものも含めのべ50万とされています。しかしイスラム世界では現在残っているものの数だけで300万近くもあります。

 王侯貴族やイスラム共同体のみが所持していたこうした貴重な装飾写本は現在の欧米では稀覯本として取引されている現状です。現在イスラム写本を最も多く保有している場所はイスタンブールのスレイマニエ図書館(6万7千点)で、それにカイロ国立図書館の5万点、イラクのサッダーム写本図書館の4万点が続きます。
 上でイスラムの書物の話題は装飾美術とアラビア書道のテーマに収斂されると書きましたが、後者に関しても、それと関係の深い2つ目のトピックを最後に設けることにしました。イスラム教では最も重要な書物であるコーランとハディースの書誌的側面についての基本常識です。

 

 

 


≪トピック2≫ コーランとハディース

 7世紀にイスラム教が成立する以前、アラビア語という言語は4,5世紀の碑文が各地で残ってるぐらいで、文書らしい文書はほとんどありません。当時のアラビア半島では口承で伝えられる文化だったからです。
 マホメットのコーランも当初は暗誦で広められました。マホメット自身も文盲でした。
 死後18年たってから、三代正統カリフのウスマーンの主導で初めて書物のかたちに編纂されます。この時は鹿皮が使用されていました。現在のコーランの章の配列はこの時に定まったものを踏襲しています。世にいうウスマーン版コーランです。
 彼の治世において、コーランの読み方、書き方が公の主導で決められます。ウスマーン自身がマホメットから直々に朗誦を教授された当時の代表的な朗誦学者の一人でした。ただ、国家権力により強制的に行ったため、この時にマホメットの他の高弟たちが保持していた章句の配列や発音の仕方が失われてしまい現在では再現は不可能です。
 ウスマーンはイスラム教の歴史に重要な足跡を残しましたが、為政者としての評価は低く、最後は656年暗殺されています。彼が殺されたとき読誦していたとされる血染めのコーランは今トプカプ宮殿が所蔵しています。

 コーランが書かれるものとなって以降、その書体はヒジャーズ体からクーファ体、さらにナスフ体へと変わってゆきます。ある程度信用できる現存最古のコーランは9~10世紀のクーファ体のものです。コーランの写本で双璧をなしているのはイランを出自とするブワイフ朝の影響の強い東方クーファ体とナスフ体です。
 史上最高のクルアーン写本の筆耕と言われたのがヤークート・ムスタアスィミー(~1298)で末期のアッバース朝やイル・ハン朝に仕えました。多くの弟子を育成し、その系譜はのちのオスマン朝にまで続いています。
 彼の書体の美しさは写本の歴史上で頂点を極め、コーランの原音を正確に再現するための記譜技術も完備していました。選び抜かれた六人の高弟にヤークートの署名を入れる事を許可したため、現存するヤークート署名の写本では、本人のものを識別するのは困難だそうです。コーラン写本で現在最も価値の高いものはこの派のものですが、アッバース朝末期の騒乱により現存数は限られます。

 一方、ハディースの方は、ウマイヤ朝の個人蔵書家の項の冒頭で紹介したシハブ・アル・ズーリの蔵書が主要なソースになって、九世紀頃に多数が編纂されました。
 諸学派が銘々でまとめているので内容には違いがあり、そのうちスンニ派の六大ハディース集と称されているのがアル=ブハーリー『真正集』、ムスリム・イブン・ハッジャージュ『真正集』、アブー・ダーウード『スナン』、アル=ティルミズィー『スナン』、イブン・マージャ『スナン』、アル=ナサーイー『スナン』の六つです。特に最初の二つが権威があり、これらは邦訳も出版されています。
 ブハーリーなんかは編纂に際して膨大なハディースを収集しているので、蔵書家として取り上げてもよかったんですが、それだと蔵書家がハディース収集家ばかりになってしまうのでこのタイプの人は必要最低限に限りました。
 ハディースの編纂物は内容順に配列されて出版されています。古代ギリシアの自然哲学や天文学に特化したのがファルサファ、古典アラビア語文法・修辞・詩学はアダブです。アダブの初期の編纂者は、これもバグダッド篇で蔵書家として紹介したアル・ジャーヒズでした。

 以上の記述は「写本クルアーンの世界」(小杉麻李亜)を参考にさせて貰いました。

 

 

 

 

 

 


③ うんと飛んで20世紀です。
 ◇ Philippe de Tarrazi (1865-1956)
 フランス系レバノン人。自身の蒐集2万の本と3000の写本でレバノン国立図書館を設立する

 

 

 

 

 

 

 

 

 

≪トピック3≫ 古代・中世の大図書館

 古代篇・中世篇・イスラム篇を通して、個人の書斎よりむしろ各時代の伝説的な大図書館の記述が中心になってしまったきらいがあります。近世の英仏のように王室蔵書を上回る蔵書家が存在した国は例外的であり、特に中東のように絶対的な王権の存在した地域ではどこでも王室図書館が圧倒的です。(かつ残った史料もダントツです)
 最後におさらいのつもりで、これまでみてきた特に規模の大きな古代・中世の図書館を12館抜き出してみました。(古代から6館、中世からも6館)
 内陸地に立てられたものは少なく、アレクサンドリアをはじめ海に沈んだ古のイメージを醸し出しています。

 


① 古代 BC?c  カルタゴ図書館         フェニキア系
  冊数不明

② 古代 BC3c  アレクサンドリア大図書館    ギリシア系
  700000~1000000冊

③ 古代 BC3c  アンティオキア図書館      ギリシア系 
  冊数不明

④ 古代 BC2c  ぺルガモン神殿図書館      ギリシア系
  200000冊

⑤ 古代 AD2c  トラヤヌス記念図書館      ローマ系
  30000冊~

⑥ 古代 AD2c  セルシウス記念図書館      ローマ系
  12000冊

⑦ 中世 AD4c  コンスタンティノープル大図書館 ビザンツ系
  120000冊

⑧ 中世 AD6c  ペルシア知恵の館        ペルシア系
  数万冊

⑨ 中世 AD8c  バグダッド知恵の館       イスラム系
  数十万冊

⑩ 中世 AD10c カイロ知識の家         イスラム系
  1000000~2000000冊

⑪ 中世 AD10c コルドバ図書館         イスラム系
  400000冊

⑫ 中世 AD13c グラナダ宮廷図書館       イスラム系
  1000000冊~?

 

 

 

 ①のカルタゴ図書館は謎の存在です。一番情報の乏しい図書館です。、
 ②のムセイオン付属のアレクサンドリア大図書館は皆さん一番よくご存じで、古代では名実ともに最大の図書館ですね。私たちが今読む事の出来るギリシア・ローマの古典はリヴィウスにしろトゥキディディスにせよ多くが不完全な本であり、とりわけギリシアの大哲学者ではプラトン・アリストテレス以外はほとんどが断片しか残ってません。近代以降の西欧人にとって血肉と化した古典が実は氷山の一角であり、もしもその全貌が出現したらという痛恨の思いが古来この図書館を語らせてきた理由ではないでしょうか。(冊数では中世のイスラム大図書館にこれを越えるものがありますし、パピルス巻物なので現代の書物量に換算すると十分の一近くになってしまいますが)
 ③のアンティオキア図書館は地味な存在ですがアレクサンドリアやベルガモンと共にヘレニズム期有数の大図書館です。
 ④のぺルガモン図書館はアレキサンドリアと蔵書数で争ったほどの図書館で、これまでのパピルスに代わって羊皮紙を使い始めたことで有名です。
 ⑤のトラヤヌス図書館は、図書館が多く作られすぎて書物が分散傾向にあったローマでは最大とされてます。
 ⑥のセルシウス図書館は蔵書数は少ないものの、文化的先進地のギリシア語圏にあり、アレクサンドリア、ぺルガモンと並んで古代の三大図書館とされていました。
 ⑦のコンスタンティノープル図書館は古代末期の東ローマで設立され、中世を通して900年近く存在し続けました。キリスト教色が強かったためか、歴史が古く蔵書数も多いわりにファンが少ないようですが、末期には古典復興運動が興りそこからの流れが西欧ルネサンスにもつながります。
 ⑧のペルシアの知恵の館は、その東ローマで古典古代の文物が弾圧されていた時期、そこからの亡命者を受け入れて、古典を保存してのちにつなげました。同時にペルシア学の主要文献の基礎を作ったところでもあります。
 ⑨のバグダッド知恵の館は初期にはそのペルシアの影響が強く、ペルシア経由でギリシアローマの古典を多く受け入れて当時の知の最先端にあり、巨大な蔵書と文化的興隆でイスラム文化のセンターとして君臨します。しかしイスラムパワーはそれにとどまるものではなく、
 ⑩のカイロ知識の家は蔵書数ではそれを超える巨大な殿堂になり、
 ⑪のコルドバ図書館はこの町に作られた中では最大のもので、コルドバは都市全体としては世界最大の書籍の集積地になっています。この地で活躍したイブン・ルシュドの翻訳のアリストテレスが西洋の12世紀ルネサンスのきっかけになります。
 ⑫のグラナダ図書館は最後のイスラム系大図書館で、スペインによって膨大な蔵書は灰となり、イスラムの知の全貌も私たちの手に届かないところへ行ってしまいました。

 

 古代最大の図書館はアレクサンドリア図書館で、中世最大はカイロの知識の家だと思います。特にカイロの蔵書数はかなり大きく、近世に入っても19世紀になるまではこれを越える図書館は存在しなかったのではないでしょうか?
 こういった古代・中世の巨大な情報センターはいずれも戦乱や征服で消滅しており、そのいずれかでも完全な形で目の前に出現すると歴史は大きく塗り替えられるはずです。
 100年程度のセルシウスを別にすれば、古代に設立された大図書館は、コンスタンティノープル900年 アレクサンドリア600年以上(ぺルガモンは17世紀まで存続していた説がありますが巨大な情報センターとしてはアレクサンドリアと同じぐらいでしょうか)、情報をさかんに発信し、かつ吸い込み続けてきたわけです。
 日本の国会図書館はまだ150年に満たないし大英図書館でさえ250年程度。仏ビブリオテークのみが(公共化以後は230年ですが)前身の王室図書館の歴史を合わせて600年か700年行くかなというぐらいです。

 

 


他にも候補はありました。
 Ⅰ アッシュールバニパル宮廷図書館→ 内容からみて図書館ではなく国家の公文書庫の色彩が強いです。一言でいうと粘土板の置き場です
 Ⅱ ローマ国家図書館→ 実在しません。ただカエサルが暗殺されずに計画通り設立されていればローマの底力からいってアレクサンドリアに匹敵するものになった事は確実です
 Ⅲ アウグストゥスアポロン神殿図書館→ ローマの皇帝図書館は最大のトラヤヌス帝のもので代表させました。全部で28もあるのできりがありません
 Ⅳ カエサリア神学図書館→ 末期では3万とローマ期の図書館の中でもトラヤヌス帝のものに匹敵しますがキリスト教文献に片寄っています。
 Ⅴ グンデシャープール→ 医科大なのか翻訳機関なのか実態がいまいちわからないので留保です。但し蔵書40万説もあります。 
 Ⅵ ウマイヤ朝図書館→ イスラム中央の蔵書としてはバグダッド知恵の館の方がはるかに巨大になりました。ただしダマスクスにあったこちらは蔵書の系統は全く別なので一考の余地はあるかも●
 Ⅶ マラガ天文台図書館→ 40万と大きいですがほとんどがバグダッド知恵の館からの拉書でそちらで代表させました。
 Ⅷ ファーティマ朝宮廷図書館→ 10万と大きいですがこれはカイロ知恵の家と連続していてそちらに蔵書が流れ込むので蔵書の系統は同一です。
 Ⅸ サラディン宮廷図書館→ 10万と大きいですがカイロ知恵の家からの拉書が多くそこからスンニ派文献のみ抜き出したものです。
 Ⅹ イブン・アッバス宮廷図書館→ 40万と大きいですが図書館というより首長の個人蔵書の色彩が強く、またその蔵書は奪われてグラナダ王家に入ってます。
 Ⅺ メルブ図書館群→ 以上と比較すると、単館ではさほどでもありません。

 

 

 

 

 

総目次
 
まずお読みください

◇主題  反町茂雄によるテーマ
反町茂雄による主題1 反町茂雄による主題2 反町茂雄による主題3 反町茂雄による主題4

◇主題補正 鏡像フーガ
鏡像フーガ 蒐集のはじめ 大名たち 江戸の蔵書家 蔵書家たちが交流を始める 明治大正期の蔵書家 外人たち 岩崎2家の問題 財閥が蒐集家を蒐集する 昭和期の蔵書家 公家の蔵書 すべては図書館の中へ 
§川瀬一馬による主題 §国宝古典籍所蔵者変遷リスト §百姓の蔵書
 

◇第一変奏 グロリエ,ド・トゥー,マザラン,コルベール
《欧州大陸の蔵書家たち》
近世欧州の蔵書史のためのトルソhya

◇第二変奏 三代ロクスバラ公、二代スペンサー伯,ヒーバー
《英国の蔵書家たち》

◇第三変奏 ブラウンシュヴァイク, ヴィッテルスバッハ
《ドイツ領邦諸侯の宮廷図書館》

フランス イギリス ドイツ  イタリア
16世紀 16世紀 16世紀 16世紀  16世紀概観
17世紀 17世紀 17世紀 17世紀  17世紀概観
18世紀 18世紀 18世紀 18世紀  18世紀概観
19世紀 19世紀 19世紀 19世紀  19世紀概観
20世紀 20世紀 20世紀 20世紀  20世紀概観
仏概史  英概史  独概史  伊概史

◇第四変奏 瞿紹基、楊以増、丁兄弟、陸心源
《清末の四大蔵書家》
夏・殷・周・春秋・戦国・秦・前漢・新・後漢 三国・晋・五胡十六国・南北朝 隋・唐・五代十国 宋・金・元   中華・中共    

◇第五変奏 モルガン,ハンチントン,フォルジャー
《20世紀アメリカの蔵書家たち》
アメリカ蔵書史のためのトルソ
 
◇第六変奏
《古代の蔵書家たち》
オリエント ギリシア ヘレニズム ローマ

◇第七変奏
《中世の蔵書家たち》
中世初期 カロリングルネサンス 中世盛期 中世末期

◇第八変奏
《イスラムの蔵書家たち》
前史ペルシア バグダッド カイロ コルドバ 十字軍以降
 
◇第九変奏 《現代日本の蔵書家たち》
本棚はいくつありますか プロローグ 一万クラスのひとたち 二万クラスのひとたち 三万クラスのひとたち 四万クラスのひとたち 五万クラスのひとたち 六万クラスのひとたち 七万クラスのひとたち 八万クラスのひとたち 九万クラスのひとたち 十万越えのひとたち 十五万越えのひとたち 二十万越えのひとたち エピローグ TBC

◇第十変奏 《現代欧米の蔵書家たち》
プロローグ 一万クラス 二万クラス 三万・四万・五万クラス 七万クラス 十万・十五万クラス 三十万クラス エピローグ1 

◇第十一変奏
《ロシアの蔵書家たち》
16世紀 17世紀 18世紀①   19世紀① ② ③ 20世紀① ② ③

 

 

Δ幕間狂言 分野別 蔵書家
Δ幕間狂言 蔵書目録(製作中)
 
◇終曲   漫画の蔵書家たち 1 
◇主題回帰 反町茂雄によるテーマ
 

§ アンコール用ピースⅠ 美術コレクターたち [絵画篇 日本]
§ アンコール用ピースⅡ 美術コレクターたち [骨董篇 日本]

§ アンコール用ピースⅢ 美術コレクターたち [絵画篇 欧米]
§ アンコール用ピースⅣ 美術コレクターたち [骨董篇 欧米]
 
§ アンコール用ピースⅤ レコードコレクターたち
§ アンコール用ピースⅥ フィルムコレクターたち
 
Θ カーテンコール 
閲覧者様のご要望を 企画① 企画② 企画③ 企画④


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  5. [212] イスラムの蔵書家たち コルドバ – 蔵書家たちの黄昏
  6. [104] 現代日本の蔵書家たち2 二万クラスのひとたち – 蔵書家たちの黄昏
  7. [2] 反町茂雄によるテーマ その1 – 蔵書家たちの黄昏
  8. [204] 古代の蔵書家 ローマ – 蔵書家たちの黄昏
  9. [9] 鏡像フーガ4 江戸の蔵書家  蔵書家たちが交流をはじめる – 蔵書家たちの黄昏
  10. [118] 現代欧米の蔵書家たち 10000クラスのひとたち – 蔵書家たちの黄昏
  11. [208]中世の蔵書家たち 13,14c – 蔵書家たちの黄昏
  12. [7] 鏡像フーガ2 蒐集のはじめ – 蔵書家たちの黄昏
  13. [108] 現代日本の蔵書家6 六万クラスのひとたち – 蔵書家たちの黄昏
  14. [120] 現代欧米の蔵書家たち 30000クラス,40000クラス,50000クラスのひとたち – 蔵書家たちの黄昏
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  22. [210] イスラムの蔵書家たち バグダッド – 蔵書家たちの黄昏
  23. [206] 中世の蔵書家たち 9, 10c – 蔵書家たちの黄昏
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