中国篇は足らざるところが多く以前より可成改稿してある。恐らく此の後も修正する箇所は多いであろう。
本篇中語り残した事は少なく無いが其の内特に気になった以下の二点だけを語っておく為に附章を設けた。
Ⅰ 所謂「書の五厄」とその後の諸厄に就いて
Ⅱ 清末蔵書家達の本邦での爆買いと本邦蔵書家達の清末での爆買い
の二題である。此の頁のみのリンクに留め総目には載せない。
Ⅰ 所謂「書の五厄」とその後の諸厄に就いて
中国の書籍蒐集の歴史を特色づけるのは何より焚書坑儒以来の「厄」の数々である。本篇では先ず時代毎に章を分かった為に、各時代を通した形で此の論題で語る事が出来なかった。以下、此の章を以て其の責めを塞ぐ。
一、書の五厄
中国に「書の五厄」という言葉が有り、焚書坑儒を筆頭に六朝時代に至る迄の五つの「厄」がこの名を冠せられている。其の後も之に勝る厄が続いたにも拘らず、「五厄」が六朝で終わっている事から見て、此の言葉自体は随分と古い言葉の様である。以下に之を書き出すと、
其の第一は、秦の焚書坑儒である。
其の第二は、新で王莽が打倒された際の国家蔵書の焼失である。
其の第三は、後漢末期の遷都で国家蔵書が運搬中に混乱で消失した件である。
其の第四は、晋末の永嘉の乱における国家蔵書の散逸である。
其の第五は、六朝時代に梁が都を落とされた時、元帝の巨大な蒐集が焼かれた件である。
何れも文化学術に甚大な被害を齎した災難であって其の一つでも無かりせば当今我々が有する文化的資産に大なる益の生ずるであろうと思量される様なものばかりであろう。
”其の第一”の焚書坑儒が官民問わずこの世からの書の消滅を狙ったものであるのに対して、後の四つはいずれも戦乱ないし混乱による国家蔵書の消失である。これは「書の五厄」が何れも上古・中古までに限られており、この時代までは如何に多くの大蔵書家の跋扈した中国と云えども国家の蒐書の方が圧倒的だったのであろう。
所でこうした中にあって焚書坑儒はやはり他から異彩を放つ。それは思想的な正当性への関心と、国家のみならず民の所有する書へ向けた眼差しが際立ち、古代地中海周辺におけるキリスト教による書厄を思わせる色彩を持っている。
似た例としては後に北魏の孝文帝が民の図書の所持を禁じ秘匿者を死刑にした話があるが、この時は政府自らは書の貯蔵に励んでいた。にも拘らず始皇帝の時に匹敵する打撃を受けこの時期のものは断片しか伝わらぬ。
焚書坑儒は「歴史は秦紀以外全部焼け、博士官の職務以外に詩書百家語を所蔵するものはみな焼け、詩書のことばを口にするものがあったら殺してしまえ、古のことを引いて今のことをそしるものがあったら一族全部皆殺しにせよ」という過酷さの一方で、医学や農学と云ったテクノロジー関係を例外に置いた事は善く知られる。我が国でも、戦後自衛隊が創設された折には旧軍の統帥・教育畑が一部例外を除いて雇用されなかったのに対し、技官などは多く雇われていた。この辺の事情は古今東西変わらぬ様だ。
漢代になって、河間献王や淮南王の様な皇族がそれまで隠れていた書を広く集めこれを救った経緯は本篇でも述べた通りであるが、結局このタイプの書厄は中国では主流にならなかったとも云える。(もっとも、後になってから場所を改めて論ずるように寧ろ清代の四庫全書にその風があったとみる向きも無いでは無いが、其処まで言い出すと独のモヌメンタ=ゲルマニエ=ヒストリエカやギゾーらにより成された其の仏版、或いはモムゼンのローマ碑文の蒐集などにも話が及ぶのでこの種の議論は是で切り上げる)
二、その後の諸厄
実際「書の五厄」の以後も中国では同様の書の災難は以前にも増して続いている。試しに六朝以後で新たな五厄を拵えてみようか。
其の一は、煬帝の暗殺後三十七万巻もの隋の国家蔵書が焼失した事である。
其の二は、唐末の黄巣の乱による国家蔵書の散逸である。
其の三は、アロー号戦争で清朝の多くの蔵書が焼けた事である。
其の四は 清末の義和団の乱で明編纂の永楽大典が焼け今日まで伝わらない件である。
其の五は、清末民初の動乱で数多くの蔵書楼が戦火に晒された事である。
其の六は、文化大革命の時・・・と、更に続ける事も出来るが取り合えず此処で止めておく。
押さえて置くべきは、宋・金・元・明の滅亡時には、当然多くの書の散逸もあったにせよ枢要なものは比較的次の王朝へ引き継がれた事であろうか。北宋の御符に納められた書は金人がこれを略奪したが破壊することなく首府へ送られ元・明を経て清の庫へ入った。今日の中国国家図書館の善本の中心を成すのはこれらである。
此れは王朝の交代毎に書が散じて来た唐代以前の愚を繰り返さぬ様、新たな王朝の方でも善く按配したかに思える。北方辺境の蛮族も古代の匈奴や鮮卑は文物の価値すら分からぬ体であったが、近代の金人や元人には漢族の高度な文明を理解し敬するだけの進歩があったと云える。(それが一層極まったのが清人であろう)
寧ろ宋代以降での書の厄には更に遠方からの外患に拠るものが多かった。太平天国の乱、アロー号戦争、義和団の乱、民初の動乱など何れも西欧列強に由来した災害である。
我が国日本による書厄も忘れる訳にはいかぬ。人民中国の初期に阿英と併称される蔵書家であった鄭振鐸(中華人民共和国篇で筆頭に項目を設けた)に「書物を焼くの記」という丁度此の章と同じテマの短い文章があり、其処でも焚書坑儒以来の中国史上の書の厄について語られている。所が其処での記述で最も多く割かれているのは鄭自ら体験したる上海事変の際に於ける日本軍による焚書に関してなのである。
鄭の文章で他に興味深かったのは清朝に於ける焚書も強調されていた点だ。此のブログの中国篇では何方かというと清朝は書を集め古典の散逸を救ったという方向から語る事が多かったが、決して其方の面を軽視している分けではない。鄭振鐸は人民中国で要職を占めているが其の以前の民国に於いても活躍していた編集者著述家である。辛亥革命を国是とする民国期の知識人には清の集書事業を其の方面から見る人がとりわけ多かった。非常に矛盾する様に思われるかもしれないが、大規模な文献収集が同時に焚書の性格を持つ事は古来常である。窮めて興味深い主題ながら前述の通りそうした難題は後へ回している。
以上、一二の例外はあれど中国に於ける「書の厄」と云うものは、総じて王朝が倒れた後の破壊が徹底的な事に拠るものだ、と此処では取り合えず言い切ってしまっても良いのではあるまいか。
三、本朝に於ける書厄
以上、中国の「書の五厄」に就いて語ったが、我が邦に於いてそれに類するものは何であろうか。
禁裏の御文庫は屡々焼けている。平安時代には冷泉院が焼けているし、承応二年の大火による損失などは当今でもよく語られる。平安では他に匡房の江家文庫の焼失も大きい。
然しこれ等のものは何れも個別散発的に起こる火事の類に過ぎず、戦乱によって多くの書が失われたわけではない。規模に於いて比較にならぬ。
近世になると、我が国でも応仁の乱や信長による叡山焼き討ちなどこの種の「書の厄」が登場してきた。
だがこれとて中国に於けるそれとは到底比べものにならない。
応仁の乱に於ける書災で最も有名なのは兼良の桃花文庫が焼けた件であろうが、日典の項で示唆した様に兼良は書の一部を密かに寺へ避難させていた節がある。
戦国大名の栄枯盛衰で城は焼け一族郎党皆殺しなどと云う様なものも、本邦蒐書文化にはさしたる影響を与えない。日本の大名蔵書が充実するのは江戸の中期以降である。戦国以前に目ぼしい蔵書を備えていたのは大内以外には後北条、今川くらいであろうか。何れも文化大名なりに末路は比較的穏やかであった。
近世では他に関白秀次が金沢文庫や足利学校を強奪した話もあったが之も家康が直ぐに元へ戻している。
日本における「書の厄」とはそういうちいさな話ばかりで、中国の様に前代までに築かれた文化が一気に消失しかねないような書厄は絶えて見当たらないのである。
若し我が国においても中国の書厄に相当する様なものが過去にあったとすれば、それは唯一関東大震災のみである。
此の震災では東大付属図書館や早大図書館が焼けた。蔵書家では安田の松廼舎文庫や黒川家三代の書が焼けた。古書肆では浅倉屋の書庫が焼け、当主が老齢であった事から以降は大きな在庫は持たず斯界は村口書房の天下になり、古書肆の業界地図までが此の震災では塗り替えられている始末である。(因みに先の大戦での空襲の類は被災に備え稀覯書の多くを避難させていた為に被害は震災程ではなかった)
こうした次第で、明治を迎えるまでの我が国では、古い書は比較的よく保存されてきたと云える。之に目を付けたのが清末の大蔵書家たちであった。
Ⅱ 清末蔵書家達の本邦での爆買いと本邦蔵書家達の清末での爆買い
是も本来は清末で語って置くべき話題であったが何分清代は蔵書家の数が多過ぎ其処には到底盛り切れなかった。但しこの論題は前のⅠと内容が連続している面があり此処で語る意義は無くも無い。
一、清末蔵書家達の本邦での爆買い
江戸の末期に私人で最も多く本を持っていたのは誰であろうか。
恐らく梅堂ではなかったか。
然し梅堂は新政府に仕える事を潔しとしなかった為に晩年困窮して書を幾分売りもした。其の後は誰か。
八万に上る黒川家三代の蒐集は真頼が最も集めたと云われるが春村も相当に集めていた筈である。明治の初め、浅野梅堂の後に続いたのは黒川真頼ではなかったかと思われる。
この後に田中光顕伯が我が国の古典籍市場を席巻する。宮内庁や内閣で要職にあった伯はそれら官の蒐集を代行すると共に自らもまた多くを購った。伯から、或いは伯を通じ支払われる金は莫大な金額に上り、斎藤琳琅閣などは伯を第一等の華客として遇していたそうである。
其の光顕伯が善本稀書の蒐集に乗り出すに至ったのはそもそも何故であったか。其れは清末の蔵書家たちが我が国古来の書を多く購いそれが大量に中国へ流れた事がきっかけであった。
明治を迎えた頃の我が国の古書価格が相場に比べて著しく安価であったことは他国にも知られていた様である。当時の明治政府は政治や社会の変革を推進し官民挙げて西洋化の改革に取組んでいた。和書漢籍などは顧みられず安値で市場に売り出されていた。
此の時分には欧人も随分求めたものである。薩道や英王堂をはじめとする欧人たちの争って書を求めた様はのちの語り草でもあった。ノルデンショルドは兎も角として薩道など可成のものを蒐めて居た筈である。
時同じくして清人も来朝する様になり彼らも欧人同様に日本で古書を購うこととなるのであるが、欧人とは大きく異なる点が一つあった。
是は中国で既に散逸して伝わらない書が我が国日本に於いて多く保存せられてきたのを彼らが発見した事である。
中国は元来目録学が盛んである。官民を問わず蔵書目録の類は無数に残されて居る。然し既に上で語った通り「書の厄」の頗る多い国柄でもあった。故にそうした度々の蔵書の散逸の為に目録に載せられた書で今に残る本は極めて少ない。中国の蔵書家の多くは、目録の上で其の存在は知っていても実物はとうにこの世から消え去ったと信じていた書が、日本で保存せられていたことを知り是に強く感銘を受けた。
例えば「貞観政要」なども本国で完本は残らず諸方から断片をつなぎ合わせた不完全なものを読んでおったと云う。然るに我が国では是が平安時代に伝来され其の古写本が今に残っており嘗て頼朝も家康も其の完本で是を読んだものである。
実際この頃の清人が日本で名の知れた大名家の目録などを観てそうした天下の弧本を発見し驚喜した様は想像に余りある。
蒐集家としての彼らが関心を寄せた点はこの他にもあった。
宋元の古版本が珍重せられて来たのは中国も我邦も同じである。然し中国では宋元版と云っても宋元時代に拵えられた版木によって刷られた書を指す事が多く、実際に刷られた時期は明代以降なのが大半であった。然るに我邦に残る宋元版は宋元の時代に向こうへ渡った人が当時の書を持ち帰り、それが今に至るまで保存されてきた物である。清人は是にも驚いた。
江戸時代に日本が鎖国をして居った時分も、我が国で彫られた板木が長崎から清に輸入せられ大いに使われておったそうである。慧眼な清人は既に其の頃より日本が中国の古き書に富めるのを或る程度は推察して居ったのかもしれない。然し実際に訪れてみると何もかもが予想を大きく越えた。
是は買わねばならぬ。清人がそう思ったのも無理からぬ事であった。
一例をあぐるに我が国に知己の多かった葉徳輝が日本から書を買っていた件は従来から善く知られている。
而して近年明らかにせられた事実に、三大大名蔵書の一とも称されたる豊後毛利の書も清末の大蔵書家たる方功恵の蔵へ帰していたと云う話がある。高標公亡き後佐伯文庫の書の多くは幕府へ献上せられ、また維新後には新設の書籍館の為に供出させられた。その残りが売り立てに回るが、是を多く購入していたのがかの方功恵だったと言うのである。今中国国家図書館や北京大学図書館などに蔵されている佐伯文庫本が其れである。
此の様に、嘗て中国より齎されたる書が再び海を渡るこの時代にあって、最も多くを購った男が楊守敬であった。
楊守敬は1880年に駐日公使の随員として来日した。その生涯には数十万巻の書を集めたとされるが詳しくは 清の大蔵書家 の章の末尾の辺りに記した。就いてみられたい。
書肆は斎藤謙三の琳琅閣を使うことが多かった様で、この店は我が国より中国へ書が流れていた時代に活躍をした象徴的な存在である。(逆に中国より日本へ書が流れた次の時代には田中文求堂が其の様な存在として衆目の一致するところであった)
楊守敬の以外にも当時の清の公使館には日本の書を購うものが幾人も出た。やや遅れて着任した次代の公使黎庶昌も蔵書家であり矢張り多くを買っている。随員の陳矩・黎次謙もこれに続いた。他に清代篇でカテゴリィを設けた程の著名の蔵書家では羅振玉や後の公使李盛鐸などがいる。載せれなかった者では力鈞、呉汝綸、張滋舫、田呉祥など其の数に限りがない。
これら我が国へ来った外交官たちによる集書には思うに国の施策によるところがあったのではと推測する向きもいよう。金の其処から出ていたのではとする推論も奇怪な見方であるとは必ずしも云えまい。でなければ、楊守敬が最初の一年だけで三万巻を購ったなどと云う話は到底了解できるものでは無い。
ただ彼らは先ず第一に書を愛した蔵書家達であって、単に政府に命じられただけの役人とは異なる。黎庶昌などは其の産まれた家が既に七八万の書を蔵して居った。親類にも何万巻を蔵するものが幾人もいた。
彼らの蒐集は日本関係に留まるものでは無く経史子集の四部に渡るは勿論、十万、或いは数十万の巨きさに上り、一個の人物してみても或いは画を善くし或いは書家として名を成した畏敬すべき大教養人であった。聡明ではあっても先ず第一に日本専門家であった薩道や英王堂とは視野の広さが違っておった。
この時分に中国より日本に来た人は今に比べて随分尊敬せられたものである。時代は少し下るが羅振玉なども京都に滞在した折には日本の学者たちに大変に崇敬され終始丁重に扱われて居た。既に本篇に記せる如く羅振玉は所蔵するところ30万巻にも至った大蔵書家である。彼に逢った邦人は其の教養の只者で無いのを察したに違いない。
楊守敬は1884年に我国で蒐集した書籍を携えて帰国した。足掛け四年ほどの滞在であった。選りすぐりの珍奇のものを古逸叢書という目録に纏め、名彫師木村嘉平に彫らせた其の版木も是と共に持ち帰ったという話である。
はじめに語ったように、我が国の田中光顕伯が書を集めるきっかけとなったのは楊守敬ら清の大蔵書家たちが日本で多くの稀覯の書を漁っている様子に発奮したものともみられて居る。楊や黎の集書に清国政府の思惑も働いていたらしく伺えるのと同様に、田中伯や野村素介男爵の様な我が国要人の其れも古来伝来されたる貴重なる古典籍の流出を防ごうという政府的の考も見えぬではない。
殊に田中伯は自ら皇室の書を預かる帝室図書頭の職にも在り、宮内大臣をも務めて宮内庁の収書を一手に引き受けた豪傑である。内閣書記官長として内閣文庫の集書も宰領した伯がこの時期の我が国にあって最大の買い手であった事は衆目の一致するところである。
野村素介男も逸話には事欠かぬ。嘗て村口半四郎が座談の際に発した言葉に「後にも先にもこれ以上豊かな蒐集はみた事は無い」と云うものがあったが、其れらは村口を通じて和田維四郎へ流れ今は東洋文庫や大東急文庫に蔵せられて居る。 豪傑的の話もある。楊守敬が買い損なった書を其の直後に僅かな隙を突いて是を購ったというものである。この件は当時多く語られ喝采せられたものであった。此の野村男も嘗て文部省に禄を食み文部の行政に携わりし人である
田中伯野村男共に政府的の考を離れても書を愛し一介の私人としても書に多くの金をつぎ込み晩年には其の処分に思いを深くし試行錯誤などもした人であった。是も楊守敬らに似ている。
遠く泰西に目をやれば、時まさに同じくして英米の間でも是に似たる問題が起こっている。十九世紀の後半から二十世紀の初頭にかけての英国では多くの稀覯の書が米国へと流れ、小さからぬ社会問題となって居た。
殊に FolgerがRosenbach翁を通じて沙翁の活版印刷本を大量に其の庫に入れた件には是を憂う声は鈔なくなかった。初版の二つ折本のごときは今多くが米国に蔵せられて居る。
またThomas.Phillipps卿の所蔵されておった写本を購ったのは金融王Morganであった。卿死後の数度に渡る売り立てでMorganは多くを攫っている。同家の売り立て会は或る意味我が邦の福井崇文館にも似てH.P.klausが其の終焉を打つ迄回数を重ねる事百年の長きに渡ったがその間Morganlibraryはずっと是を注視し続けた。
而してRichard Heber翁に端を発しWilliam Henry Millerの家へと引き継がれたCollectionも其の米国関係に限っては鉄道王Huntingtonが是を購うに至っている。英語文献の蒐集に於いては爾来最大と目された程のものであった。
ただ、抑々稀書珍籍に満てる旧い国から金のある新しき国が是を購うは事の道理であろう。其れは水の高きより低きに流れるに同じ倣いである。
同様の事情は我が国国内に限っても当て嵌る。反町茂雄が嘗て語ったように室町以前の古典籍は明治の初めには京阪神の所蔵家に多く分布し江戸など関東には未だ鈔なかった。其れが明治大正昭和を通して金のある蒐集家の多い東京近辺へと移ってゆき東西の差は逆転したと。反町の畿内への足繫く通いしは天理と云う第一等の華客との商談の他には実にこの為であった。
所で此の英米両国の例から一体何が明らかになるか。
其れは古来或る国とまた或る国の間で貴重な古書の取り合いが起こる時、使用せる言語の共通していた場合が殆だと云う事である。実は我が国と中国の場合も其の例に充て嵌る。
我が国の大学に十九世紀独逸の大学者の蔵書が幾つか蔵せられているのは是は第一次大戦後のマルク安に因るものである。三木清などもこの時期に多くを買って持ち帰っている。然し此の様なものは国際的の問題とはならぬ。其れが規模の面で大きくなり国と国の間で問題に至るのは、何れも言語が共通し国民間で文化の根元を共有していた場合に限る。
若し羅典語の古写本などに今売り物が出れば恐らく欧米各国の間で取り合いになろう。其れは中世以前にはこれ等の言語を全欧の知識階層が其の共通語として読み書きしておったが為である。之と同様に、我が国の知識階級も明治以前には専ら漢語を習い、正式の改まった文章も皆漢文で書かれて居った。之は白文の読み書きのできぬ当今の者には一寸思い至らぬ点かもしれぬ。
上に述べたる様に清人が最初に目を付けたのは我が国で保存せられて居った中国の古書であったが、のちに彼らは我が国の人が書いた漢籍、和製漢籍にも目をつけるようになる。是が薩道など欧人蒐集家とは異なれる第二の問題である。
確かに薩道や英王堂は我が国で古書を買う際には漢籍などよりも我が国の人が書いた和書を多く買った。これに反して清人は自ら読めぬ和本は余り買わなかったかもしれぬ。
俳書や洒落本の類も成る程日本の文化であろう。然し我が国の改まった形での知の多くはこの時代にあっても未だ漢籍に蔵せられておりその結果officialな知に先に通暁することになったのは欧人ではなく寧ろ清人の方であった。
之に加えて先ほどより申し述べ来った様に此の時代我が国で書を買う任にあたった者は海千山千の蔵書家たちであって、彼らは一介の日本専門家ではなく総合的な知の塊であった。其故に彼らはこの時期漢籍の弧本などを漁るだけに留まらず、大所高所より和製漢籍に蔵せられたる我が国の千年以上に渡る公式の知を総覧し得る立場にもあった。
大正の初めに来日した羅振玉が大いに崇敬された話は既に述べたが、管理人の様な小学の者ですら楊守敬の「学書邇言」の頁を捲る度に巻を置き暫し嘆然とする事を鈔しとしなかった。彼の慧眼は恐らく此の時分の江戸知識人の水準を上回り、その眼差しは恐らく我が国の知の深層へも達し或いは其の枢密まで射貫いていたかも知れぬ。彼が日本で次に興味を持ったのは江戸の考証医学であった。
二 江戸の考証医学と江戸の考証学
日本に蔵せらておった漢籍の弧本などを漁る事だけに留まらず、清人の目が更に日本人の書きたる和製の漢籍へも注がれるに至った次第を以上申し述べた。
清人は和本も購入したに相違ないが江戸の続け字など今日の人でも之を読むには相当至難なものである。清人に是が楽に読めたとは思えぬ。この時分の清人が和本に如何に対したか、其の研究の類は不幸にして管理人では分かりかねる。
然るにこのとき彼らが関心を向けたのはもっと別のものであった。
楊守敬は来朝した頃には主に斎藤琳琅閣を使っておった。其の後森立之などから購うようになった。是は彼の日記からも伺える。其れが縁となり森の他に黄村、重礼らとも交際を持つ。此の協力により諸方の蔵書家の蔵していた珍本稀籍を或いは購買し或いは自ら所蔵之書との交換をもって得るに至った。そして此の交際のうちに多紀及び其の一党が築いた考証医学の何たるかを知り、更には棭斎抽斎など江戸末期の考証学そのものにも精通する事になるのである。抽斎の「経籍訪古誌」を初めて刊行して世に出したのは彼である。之は我国にあっては其れまで稿本の儘に蔵せられて居たものである。
第一項 江戸の考証医学
多紀氏による考証医学の何たるかを知らぬ人は今の我が邦にあっても決して鈔なく無い。
徳川将軍家の医療体制は先ず半井家と今小路家が之を宰領した。半井は医心方を秘蔵する家である。今小路はかの曲直瀬道三の後裔である。禄高は半井の方が多く給せられていた。
その下に内科の最高責任者の任にあったのが多紀氏である。一方、外科の最高責任者は桂川氏であった。彼らは侍医或いは奥医師として累代の将軍を拝診しまた治療に努めた。
多紀氏の家塾たる躋寿館はのちに医学館として官学化せられた。之は今の東京大学医学部へ至る源流の一である。盛時は800人が学んでいる。そして其の場所に於ける考証医学の隆盛は多紀氏をして其の権勢に於いて半井今小路を凌がしむるに至った。
考証医学とは、診療の現場で何かを校勘するわけではなく、世に伝えられたる医書を対象とした考証学である。医家が同時に考証家を兼ねる事がこの学の一の特徴であった。
多紀氏は元簡の代から古医書を多く蒐集した。そして之を校勘し刊行した。元胤・元堅の二子にも此の遣り方は継承された。彼ら三人の著述は江戸の医学の頂点を成すに至った。
殊に元堅は其の学の上で元簡の方法論を更に徹底せしめた。元簡の其れが古典的な注釈を未だ引きずっていたのに対し、元堅は諸種のテキストの比較検討の上で原型を復元する事に重きを置いた。之には仁和寺本『黄帝内経太素』や宋版『外台秘要方』といった文献の世に知られる様になった事も一因であろう。
蓋しこの元堅から森立之に至る其の学徒たちの医書に関するテキストクリティークは清朝の水準をも抜いて居ったと云えよう。之は清人も認めた。
其の何たるかすら知らぬ人の少なく無い一方で、江戸時代の知の頂は実はこの考証医学にあったのではなかったかと、今の世にあって考える人も鈔なく無い。
然るに西洋医学の導入に血眼になっていた此の時分には漢方医学などは世間から顧みられずまた古書の価格も極めて安かった。本屋などで其の価値に気づいた者も或いはあったかもしれぬ。然し買い求める人の鈔なきが故に其の値は上がろう筈は無かった。専門的の医家の他には医書など購う者は余程の好事家に相違ない。関東大震災の後に武田が医書本草書を集め始める迄我国ではそんな感じであった。
「東アジア所在の医薬古典籍」(真柳誠)に拠れば楊守敬の購入分に限っては以下の様な道筋が明らかにせられている。
小島家→楊氏
奈須家・啓迪院→小島家→楊氏
小島尚質→村田章→小島家→杉垣{竹+移}→楊氏
啓迪院・養安院→杉垣{竹+移}→楊氏
養安院→久志本家→小島家→渋江家→森立之→楊氏
伊沢家→小島家・渋江家→森立之→楊氏
野間家→森立之→楊氏
森立之→楊氏
多紀家→楊氏
伊沢家・多紀家・小島家→山田家→楊氏
武田文庫→渋江抽齊→多紀家→寺田望南→楊氏
晩年の鴎外が宝素や抽斎・蘭軒などの伝を残し、江戸の考証医家に関心を集中させたのは是より三十年の後である。鴎外は其処にこそ江戸の知の極点があった事を悟ったのかもしれぬ。然し鴎外より一足早く、来日した清末の蔵書家達がそれを嗅ぎつけ、当時殆ど買い手がなく価格も安かったこれ等考証医学者たちの残した遺稿や蔵書の大方を買い漁ってしまっていた。
鴎外が其の価値に気づいた時には、多紀家の蔵書も小島宝素の蔵書も清に持ち運ばれた後で、日本に目ぼしいものは残っていなかったのである。
第二項 二つのバイブル
「医心方」 医書のバイブル
先に述べたように多紀の上には半井と今小路があった。
今小路は曲真瀬道三の直系であり、信長秀吉家康に加え元就弾正光秀はおろか足利将軍や正親町天皇までも拝診したるこの我国第一の名医の技を受け継ぐ家である。
然らば半井は何であるか。禄は半井の方が大きい。
是は医心方を蔵する家である。医心方は我国最古の医書であり、之を代々秘蔵して其れに基づいた診療を行う為に此の家は日本の医家の頂点に置かれておった。
今日的の考よりすれば可笑しいとみる向きもあるやもしれぬ。ある一家がロビンス病理学やハリソン内科学を門外不出の儘に秘蔵し医療技術を秘匿するなど今の世には有り得ぬからである。然し此の時代はそういう時代であった。
所が半井にとって命より大事なこの医心方が幕命により校勘される事になった。校勘するのは医学館総裁の多紀である。半井は五十年間幕命に従わなかったが1854年遂に屈した。
校勘とは、一言にして言えば、誤りを正してより善い本を作る事である。半井の心境は如何ばかりであったか。
此の二家の確執は平安時代の和丹の其れを引きたるものである。医心方は抑々多紀の祖である丹波の著述であった。之を半井に下賜したのは正親町天皇である。多紀の家にも不完全なる医心方は伝わっておった。
元堅は半井の拠出せる完本を校勘するにあたって、この自家に伝来せる本や仁和寺本と照合して厳密なテキストクリティークを行った。そして之を刊行し、此の秘本中の秘本を広く世に知らしめた。元堅にとっても之は最後の大仕事であった。
用済みとなった医心方原本はその後どうなったか。半井家は戦後になってこの歴史的の原本を手放そうとして医書本草書で昭和最大のコレクターだった武田薬品五代目長兵衛氏と交渉を持ったが話は壊れた。のち国が買って国立東京博物館に入れた。現在では国宝に指定せられている。
医学館で写されたものは宮内庁書陵部にある。刊行の際使用せられた板木は東大図書館に置かれ震災の時に焼けた。
少しく脱線的の話に及んだが元堅らの刊行せる医心方全三十巻は既に散じた隋唐医書をふんだんに引用しており楊守敬らにとっても垂涎の書であった。彼らも嬉々として之を求めたは云うまでもない。「医心方」を初めて中国へ紹介したのは楊守敬である。
「経籍訪古誌」 考証学のバイブル
考証医学は益々精緻の度を極めた。
元堅の学は小島宝素や渋江抽斎、森立之などへ引き継がれた。殊に森立之を以て江戸の考証医学の到達点と見なす向きは多い。
森は学者的の性格ではなかった。芝居好きで知られ若き頃に役者の真似事などして舞台に立ち其の故に家は断絶された。のち医家として名を成したが放蕩的の性格は変わらなかった。川瀬一馬など其の不実を詰ってもいる。老いてからも森の芝居好きは相変わらずで往来で声をかけると見栄をしたそうである。
川瀬の云うには後に楊守敬が刊行したる「経籍訪古誌」も元来其の材料は狩谷棭斎が用意したもので森と抽斎は其の功を横取りしたとの事である。
「経籍訪古誌」は楊の之を刊行するまで稿本の儘に蔵せられて居たものだが幾人もの考証家考証医家が関係しており先の多紀元堅も参画して居った。管理人は功を横取りしたとまで云うのは川瀬の偏狭の故では無いかと思う。川瀬は偏狭的の性格を以て知られて居った。
ただ元々の構想は棭斎が之を練り材料も其の蒐集に拠るものであろう。「経籍訪古誌」の命名も棭斎であった。然して此の棭斎は何者であったか
考証医学と云うのは考証学と医学の合いの子である。為に考証医家は医家にして考証家である。医家として彼らは主に多紀に学んだ。考証学者として彼らが学んだのが棭斎である。蘭軒、抽斎、森など何れもその門下であった。
狩谷棭斎は江戸随一の考証学者である。市井の学者ではあったが二万巻もの蔵書を有していた。考証家としては井上金峨、吉田篁墩の流れを受ける。国学者、或いは蔵書家としては塙保己一、屋代弘賢を継ぐ。
棭斎自身は医家ではなかった。然し其の弟子には医家が多く其れは考証医学の最後を看取った人々であった。金峨、篁墩の以来の考証学の精華を其処に注ぎ込んだ点で考証医学を語る上でも彼の名は外せない
来朝した楊守敬が親しく交際したのは森と其の周辺の人である。楊は彼らの営為の価値を認め其の著述や蔵書にも関心を抱き之を蒐めた。そして彼の慧眼は考証医学から更に遡り、我国考証学の太宗たる狩谷棭斎へも注がれるに至った。
或る時斎藤琳琅閣に棭斎の嘗て蔵したる善本数十部が売りに出された。楊守敬が是を求めたが金の都合で暫く場を外す。其の隙に積まれた書を或る著名の蒐集家が観て是を購い我国に留め置いたと云う。
上に野村素介が寸での所で善本の楊に持ち去られるを阻み救出したというのは外ならぬ此の時の話である。
先に述べたるように江戸書誌学のバイブルとも称される「経籍訪古誌」を刊行したのは楊守敬である。是は爾来日本に伝わる漢籍の古写本古版本を網羅せしものである。印刷は清国公使館にて為され校正には森が其処へ赴いた。
然るに棭斎が想を練り渋江抽斎、森立之へと引き継がれた此の書は我国にあっては稿本の儘に蔵されておった。森らの金の無きを責めるは酷であろう。然し其れは効用の面よりして「医心方」に於ける半井の偏狭に同じ働きをした。楊の之を刊行して広く世に知らしめる事なかりせば恐らく吾人の此の書を知る事非ざるに至ったに相違ない。
この章は近年の中国人観光客の行いに擬えて「清末蔵書家達の本邦での爆買い」と題した。
成程似たところもある。清人の大蔵書家たちは何れも大官にも拘わらず書を購うに際して大いに値切った。我が邦では岩瀬弥助を除けば富貴の者に嘗て此の様な姿は見られなかった。
楊守敬に至っては買う積もりの無い書を斎藤琳琅閣から預かり写真を撮って其の後返却するに及んでいる。此れ等は昨今の中国人観光客の所作を思わせる。其の意味で彼らも矢張り利に敏い中国人であったのであろう。
然し清末の蔵書家たちは其の優れた鑑識眼を以て古来より我が国に蔵せられたる知の在処を確かめる事に努め是を摂取した。この点では観光バスに揺られる儘に商店へと運ばれ電化製品や積まれたトレイタリィの類を袋に詰め込む観光客とは雲泥の差がある。
また彼らの営為は我が国文化をも大いに益した。楊などは「経籍訪古誌」刊行の他にも日下部鳴鶴や巌谷一六やと交遊して北魏の書法を伝え我国の書道に多大な影響を残している。
楊守敬は1884年に我国で蒐集した書籍を携えて帰国した。足掛け4年ほどの滞在であった。この僅かな期間に彼の慧眼は江戸の知の頂きを確かに掴んでおり之を持ち帰った。(尚、薩道もそうであるが楊守敬も東京に居を構え其処を中心に蒐集を行った。為に医書であっても上方にあった福井崇文館などはこの時分には全く無傷であった。)
彼は四年の後に其れらを湖北黄州の鄰蘇園へ置いた。更に十五年後武昌菊湾の「観海堂書楼」に移した。楊亡き後に民国政府は之を買上げ、一部は松坡図書館を経て中国国家図書館へ蔵せられた。別の一部は集霊囿を経て北京故宮博物院に行き、是は中華人民共和国の成立と共に台北故宮博物院に移されるに至った。
戦後川瀬一馬が台北故宮博物院を調査したところ楊守敬の旧蔵書の中心を成すものは棭斎の其れであったという。江戸一の鑑識眼を持っていた大蔵書家の本の多くが此処に蔵せられていた。今思うに高々数十部ばかりの本を救い得た野村の英雄的の行動など児戯に等しいものであったろう。
以下続く
三、本邦蔵書家達の清末での爆買い
四、漢籍の今
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