§ 魏晋
晋末の永嘉の乱の際にも其の国家蔵書は散逸するに至った。 〔書の五厄 その4〕
■ 張華 (232年-300年)
晋代で最大の個人蔵書家は宰相の張華である。当代では最も博識とされた。所有していた書は車三十台分にもなった。めったにない奇書でも張華は所有していたので、官書撰定の際も全て彼のコレクションから校定した。その著したものでは『博物誌』が残っている。
§ 五胡十六国
匈奴や鮮卑に名だたる蔵書家のいよう筈もなく居るとすれば末期の漢人王朝あたりであろうが、やはり動乱の世ゆえ北魏を待たねばならない。管理人では分かりかね復勉強してきて書き加える。
§ 南北朝
南朝
①東晋の穆帝344年 – 361年が図籍と旧簿を対校させてみると、うち続く戦禍の影響もあって3014巻しかなかったとのことである。
孝武帝372年 – 396年 の頃には秘閣の四部を校せしめると3万6千巻あった。この数字には疑義もあるが、書が大幅に増えたことは確かであろう。
②東晋を滅ぼして後に座った宋の武帝劉裕は、北朝の後秦も滅ぼしてその書を収めたがそこにはわずか4千巻しかなかった。宋は謝礼運に目録を作らせるが書の数は6万4千582説と1万560が対立している。(前後の数との整合性から倉石武四郎は1万説を取る)
③その宋を滅ぼした斉の作った秘閣四部書目録は1万8千11巻だった。
④その斉を滅ぼした梁では兵乱で前代の秘閣が延焼し経籍も遺散したため、梁の武帝は「文徳殿」「華林園」を新たに建設し集書させる。文徳殿には衆書を収め、華林園には釈典を収めた。併せて2万3千106巻あったという(これには仏典は含まず)。
梁は詩書を好んだ武帝ののちも書の拡充に努め、元帝が文徳殿の書や公私の典籍を集めて江陵に移した際にはその数7万巻を越えていた。さらに晩年の元帝には「金楼子」という著書がありそこでは「自分は四十年に渡って集めた書が8万になる」と漏らしている(一部で蔵書10万という説もある)。しかしのち北朝の西魏に都を落とされた折、高善宝に命じてこれらを焼かせたという。 〔書の五厄 その5〕
⑤南朝最後の陳では再び集書を試みるが欠けたものが多かった
■ 昭明太子 (501年-531年)
名は蕭統である。上記④の梁の武帝の長子で、かの「文選」を編纂したことで史上に名を残している。文士を周囲に侍らせその蔵書は三万巻とも言われた。早世し位を継ぐことはなかった。
北朝
①文化の程度は南朝に及ばず。北魏道武帝の時に平城に書を集め、秦の符氏、後秦の姚氏がさらに加えたものが前述の如く宋の武帝に略奪されたがそれは四千ほどしかなかった。
②魏の孝文帝は斉から書を借りて秘府を充実させる。しかし一般人の図書秘匿を禁じ所蔵者は死刑にした。秦の始皇帝や隋の煬帝の時に匹敵する打撃を受け、この時期のものは断片しか伝わらない。
③北斉の時には群書を校定して五経諸史遺闕無きに達したと称する。
④後周では武帝の頃には八千巻あった書が明帝の時には万巻に達し、斉を平げた時にその書五千を加えた。
南北朝時代も各王朝は書籍蒐集に気を配ったが、やはり戦乱の影響で散逸破壊が多く安定した収集には繋がったとは言えない。
戦乱に拘わらず個人蔵書家の面では、人数、蔵書数、質などいずれの面においても発展を遂げていたとされ、南朝東晋の393年には、殷允、張敞、郤儉之、桓石秀などの蔵書家が、宮中に書を貸し出すよう命じられた記録が残る。
北朝の北斉が行った群書校定の際にも、那子才、魏収(魏書を編纂)、辛術、極子容、司馬子瑞、李業興(國子祭酒)などの蔵書家たちに書を借り受け校写し三千余巻を得る。
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