§ 明
明は南京でも翰林院が古今の書を集めたが永楽帝が北京を都に定めたのち南北に国子監を置く。最初の事業として永楽大典を編纂し、これは二万二千九百三十七巻、一万千九十五冊に及ぶ巨大な類書である。(拳匪の乱で焼け一部を除き現存せず)
永楽十七年南京の文淵閣から北京の文淵閣に書を移し整理し目録を作るがこの目録には難があり巻数などは克明に伝わらず。
明代も社会が安定し、国家や個人、書院などの書籍蒐集が益々進んだ。前代に引き続き個人蔵書家が増え蔵書楼も各地に建設されるに至った。
先ず王公族の蔵書から語ってゆく。
■ 寧献王朱権 (1378年-1448年)
太祖洪武帝の第十七子にあたる。戯曲や音譜の作者でもあった。蔵書家としては「寧藩書目」が残る
明代の蔵書は周晋二府といわれ、まず周府では朱睦が挙げられる。
■ 朱睦㮮 (1520年-1587年) 「万巻楼」
周定王の六世の孫。王族のうちでも最も蔵書が豊富であったが明末の乱で水没している。四千三百十種、四万二千七百五十巻。万巻楼書目が残る。
晋府では以下の太祖曽孫の荘王の子の三人が挙げられる。
■ 靖王
■ 端王
■ 簡王
一般士人で天下第一とされたのが
■ 葉盛(1420年-1470年) 「菉竹堂」常に伝録に努めた 二万三千巻
■ 李廷相 (1485年-1544年) 戸部尚書を務めた。
■ 高儒 河北の人。明代嘉靖から慶年にかけての蔵書家。兵部で仕えたという。一万六千巻を蔵した。目録「百川書志」20卷を残す。
■ 李贊 「雅積樓」 書家であり万巻を有した。
■ 顾元庆 (1487年-1565年) 「夷白堂」 一万余巻。茶の歴史の研究家である
■ 楊儀 (1488年-1560年)「萬卷樓」 刻書家としての顔もあり。宋元版の善本に富んでいた
中国に於いて私人の蔵書の増える端緒となったのは云うまでもなく版本の出現であったが、その実これが明代に至るまで筆写本を中々圧倒できなかった事は世間にさして知られない。然し明代の弘治から嘉靖にかけて、つまり西暦に直せば1488年から1566年の間に至って、江蘇・浙江の二省を皮切りに書を得る手段として購買が筆写を圧倒し出した。ここに於いて版本への転換は決定的となり以後の中国に於ける私人の蔵書の増え方は更に一段の飛躍を見せる。以降、所蔵数の規模の大きくなる事に注目せられたい。
■ 厳嵩(1480-1567)
厳嵩に蔵書家のイメージはないが内閣大学士となり後には首輔として権勢をふるった彼も書を多く有して居りそれらは七千種近くに上り六万巻とも推定される
■ 范欽 (1506-1585) 「天一閣」
学者・官人。本人生存中の所蔵は四万四千程であろう。
天一閣は1561年に浙江省寧波に建造された現存最古の蔵書楼である。二階建てで、一階は閲覧や石刻の為に使用され二階が書庫。風通しへの配慮や防火用の池などが供えられたその形式は往年の蔵書楼を偲ばせる。
全祖望に拠れば范欽は豊氏の万巻楼から多くを受け継ぎ蔵書の礎を築いたという。以後、閣から書を出さず人に貸さず子孫の志ある者がその内で読むといった方針を堅持したため楼は長く温存された。全盛時には七万巻を蔵し、康熙の初め黄宗義が閣に上って以来、徐乾学、万斯同などもこれに続き、四庫全書編纂の折にはこの閣の書物も底本として利用された。太平天国の乱では損害を被り六割を失う。民国になってからもそこから更に半分を失った。
此の中国篇では蔵書家のピークが清代にあることから「清末の四大蔵書家」と銘打ったが、今ひとつ「浙江三大蔵書家(蔵書楼)」という言葉もあり、其処ではこの范氏の「天一閣」、葛金烺「传朴堂」(清代)、劉承幹「嘉業堂」(民初)が併称されている。中国で最も書に満てる浙江の地で三指に数えられたのは、あとの二つは単にその書の多さ故であろうが、「天一閣」の場合永きに渡って継続してきた伝統と格式の為であろう。中国蔵書史に於いて天一閣と黄丕烈の二つはとりわけ象徴的な名である。
■ 項元汴 (1525-1590) 「天籟閣」
一般には書画収蔵家の方で知られるが法書なども多く集めたようである。国子監生となりのち地方官を務めた。その「天籟閣」は上の「天一閣」と並び後の清朝にも重んぜられた楼であるが書のほか名画・金石・遺文などを多く収め明代を代表する収蔵家といえよう。蒐集は半世紀の長きにも及び書画の名蹟は千点を下らず。多くの人士も観賞に訪れた。自ら収蔵品について『天籟閣帖』を著している。詩も善くした。蔵書家としては宋刊本に目がなくその所蔵した陶淵明の南宋刻本などは汪士鐘、瞿氏鉄琴銅剣楼を経て中国国家図書館に伝わる。
■ 胡彭述 海盐の胡氏も胡彭述の時で一万程蔵していた。
■ 何良俊(1506-1573)戯曲理論家 翰林院を直ぐ退いた 四万巻
■ 晁瑮(1507-1560) 官人であるが書を七千種も蔵した
この二人の様な著名の士もこの時代にあって多くの書を有して居た
■ 王世貞(1526-1590)
文に於いても書に於いても名を成した。官では刑部尚書に至る。蔵書は三万。別に宋版三千余巻
■ 董其昌(1555-1636)
書画に於いて我が国にも深い影響を残す彼も五千種を蔵していたらしい。進士から翰林院に進んだが左遷されたり栄達したり波乱万丈の人生を歩んだ。
■ 焦竑 (1540-1620)
進士としては状元であり翰林院修撰に進んだが、のち出世しなかった。蔵書両楼と言われるほどの書を蓄えた
■ 陳第 (1541-1617)
音韻学で業績を残した。蔵書三万に及ぶ。「世善堂蔵書目録」あり
■ 沈謐 (1501年-1553年) 「万巻書楼」
一万巻。官人。彼の蒐集は名高い沈氏の蔵書の始まりとなった。著に「石云家藏集」がある
■ 趙用賢(1515年-1596年)及び趙奇美(1563年-1624年) 「脈望館」
父子の蔵書楼脈望館には趙琦美編訂「脈望館書目」に拠れば五千種二万余冊が蔵せられていた。この目録に載せられている書は現在日本の内閣文庫に現存している
■ 胡応麟(1551-1602)著述家である。四万二千巻
■ 李鹗翀 「得月楼」 江陰の人。これも得月楼書目がある
■ 謝肇淛 (1567年-1624年)
福建省長楽県の人。明の文人・官人。若くして下記の徐と結社を作るなどした
■ 徐 (1563年-1639年)
「徐氏家蔵書目」あり。五万三千巻。その所蔵していた書は宮内庁書陵部にも現存する
■ 祁承燦 (1563-1628) 「澹生堂」
祁氏は紹興の名族である。郷紳と云う云い方をしても良いかも知れない。祁承燦は目録学に令名があり、その楼は校勘や筆墨の質でも名高かった。書は九千種十万余巻に達している。演劇論で知られるその子祁彪佳(1602-1645)が没してから書は散じたという。「澹生堂書目」がある
■ 李应升 (1593年-1626年) 五万巻。 政治家としては東林七賢の一人であった
■ 茅元儀 (1594年-1640年)
明代の軍学者である。祖父はかの茅坤であった。古代以来の戦術・武器・地理に関する軍事知識を集大成した『武備志』240巻の刊行によって兵学史上名高い存在だが、これには祖父以来の膨大な蔵書にそれを上回る資料を収集し凡そ二千余種の書物が駆使されたという。また官人の曹学佺、書の董其昌、劇作の湯顕祖など当代の豊かな蔵書家達との間に相互に緊密な往来があった
明末清初で最も重要とされる蔵書家が以下の三氏である
■ 銭氏 銭謙益(1582年-1664年) 「絳雲楼」
明末清初では最大の蔵書家と目されており毛晋と珍本の所持を競い合った。明末期に礼部尚書へ昇り詰めるが続く清でも秘書院学士に任ぜられる。文では反擬古の説を唱え盛唐に帰れと訴えて一家を成した。斯様に後世へ深い影響を与えた名文家ながら、明で厚遇せられたにかかわらず清にも仕えるという変節ぶりが古来批判の対象となり、世の散文集にその作はあまり採られないそうである(ただ管理人の書棚にある「中国文明選10 近世散文集」には珍しく彼の文が幾つか載せられている)。その門下にはかの鄭成功もいたという。崇禎十六年蔵書楼を立てるがこれはのち焼けた
■ 毛氏 毛晋(1599年-1659年)及び,その子毛褒、毛表、毛扆 「汲古閣」
宋本を多く有し他人の書からの書写も行いさらに充実させる。これは毛氏の影宋鈔本として名高い。また蒐集のみならず多く刊行した。毛晋は銭謙益に学び交友があったがその絳雲楼炎上後に最大の個人蔵書家となった。蔵書は八万四千巻。毛晋の後はとくに毛扆が蔵書家として名を成した。毛扆の子供時分には家に版木を彫る職人が二百人居たそうである
■ 黄氏 黄虞稷(1629-1691年) 「千頃堂」
黄偉の表記の方が現代中国では一般的か。明末清初の人。父黄居中以来南京では名高い蔵書家で明史の編纂にも携わりその為に書を拠出した。父の代ですでに六万巻あったが彼の代では八万に達したという。珍奇に富み銭謙益が詩文の未だみざるものをその楼中で読ませてもらった程。「千頃堂書目」あり
■ 陸鈺 書は数万巻。明末官人で其の滅びると共に絶食して命を絶つ。同じ明の遺臣でも銭謙益などとは対照的である。子の陸嘉淑、陸宏定も文名高く二陸と称された。嘉淑も万卷を蔵したが火事で焼けた
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