蔵書家たちの黄昏

反町茂雄の主題による変奏曲

[73] 中国の蔵書家たちⅦ 中華・中共

§ 中華民国
 清末から民初にかけては欧米列強の介入する動乱の時代で、前の時代に比べて蔵書家は多く生まれたとはいいがたい。清代にあれほど多くの大蔵書家が跋扈していたのが嘘の様な静けさである。多くが図書館に吸収される中、E・バックハウスやジュゼッペ・ロスのような欧米人の漢籍蒐集がむしろ際立つ。(これら外人蔵書家は 鏡像フーガ7 外人たち へ纏めた)
 但し前代の大蔵書家たちを冊数で上回るような存在が、この時期にあって不思議に幾人か存在する事に注意せられたい。

 

 


 ■ 陶湘  Tao Xiang 1871-1940
 その人生で凡そ三十万巻を集めたとも云われる。財界での要職に在り資金は豊富だった。辛亥革命以後にも尚古籍を多く刊行した蔵書家として罗振玉、徐乃昌、刘承干などと並ぶ存在である。ただ刻書家としては宋元版よりも明末清初のものに焦点を当てていたとされる。
 蒐集の特徴としては明代の多色重ね刷り技法で名高い閔、凌二家による私刻本、通称“閔凌刻”を多く集めている。彼の蔵書ものち散逸するが多くが遼寧省図書館に収蔵されており其処は閔凌刻の所蔵数では最多を誇る。
 他に我が国の東方文化学院京都研究所も彼の書27939冊を買って是を其の基本蔵書に置いている。

 

 

 ■ 傅増湘 1872-1949 「双鑑楼蔵書」
 清末に進士、翰林院編輯と進むが、民国政府でも教育総長、総統府顧問などの要職を歴任した。のち清華大でも教鞭を執った。「双鑑楼善本書目」4巻がある。書は主に北京図書館と四川大学へいった

 ■ 徐則恂 1874-1930 「東海蔵書楼」
 浙江青田出身で上海の人である。日本への留学経験があり革命に関係し民国政府では要職を歴任した。その東海蔵書楼には五万余冊が蔵せられていた。そのうち40700冊が上の陶湘とおなじく我が国の東方文化学院(此方は東京研究所)に買われた。

 

 

 

■ 劉承幹  Liu Chenggan 1881-1963 「嘉業堂」

 劉承干の嘉业堂は、1920年中華民国時代になって建設された最後期の蔵書楼である。近代中国では最大規模と云われ、その全盛期とされる1925年から1932年の間には六十万巻と十六万冊が蔵されていた。かつての大きな楼が廃れてゆく中で登場した劉承幹という人物は、遅れてやって来た清代の大蔵書家の趣がある。
 劉承幹はやはり名のある蔵書家の多く出た無錫に生まれている 本好きではあったが先ず実業の世界に入った。
 膨大な蒐集を始めるきっかけになったのは陸心源の蔵書が我が国の岩崎静嘉堂文庫に買収された事件であった。此の陸氏皕宋楼は其れ以前にも直ぐ下に記した張元済が買収を試みたが金額が折り合わず諦めている。この頃は民国が成立した直後であり、清代の著名な蔵書楼が次々と崩壊して行き其の珍本稀書が安値で放出されていた時期であった。此れを文求堂の田中慶太郎などが買い付けに来て、また其れを日本で湖南や富岡の息子などが先を争って購入していた時代であった。
 此の様に宋元の善本が大量に日本へ流れて行く様を憂う人はこの時代の中国でも居たらしく、劉承幹が民初にあって清代の大蔵書家の其れを上回る人類史上最大規模の蒐集を成すに至った原因は実は以上の様な顛末による。魯迅などは彼を「馬鹿息子」と云っておった。
 然し中国の大蔵書家の例に漏れず彼もまた偉大な刻書家であった。彼の書の散じてゆく経緯は複雑だが現在では殆どが人民中国の図書館に蔵せられている。

 


 ■ 莫伯驥 Mo Bo Ji 1877-1958 「五十万巻楼」

 民国期に広州にあって最大の蔵書を誇った彼も遅れてきた清の大蔵書家の感がある。蔵書が五十万を越えた時に楼の名前を「五十万巻楼」に変更した。
 蒐集を始めたのは1925年と遅かった。所有する善本稀書の多くは盛昱、徐坊、丁日昌、方功惠、孔广陶、叶德辉など、楼が崩壊した清の大蔵書家たちのかつて旧蔵していたものである。海源閣からも多くを得ている。
 元来は医を学び、大きな薬局を経営していた。其れが貴重書が安値で放出されていたこの時期にあって多くの書を購う資金源になったという。日中戦争の高まりとともに香港に逃れるが移動の際1400箱の本が一晩で略奪され、スーツケース四つ分しか残らなかった。盗まれた書には後に古紙として売られていたものすらあったという。

 

 


 ■ 張元済 1867-1959
 元来は清末の進士であったが免職され上海にあった米長老会系の上海商務印書館で翻訳を担当する。のちには此処を主宰した。同印刷所の涵芬楼収蔵の善本を元に影印した『四部叢刊』など発行で名を上げた。彼は蔵書家としてよりも出版人として働きの方が大きいかも知れない。1949年の中共成立に際しても中国に留まり全人代代表に選出されている。

 ■ 周越然 Zhou Yueran 1885-1962 「官言斎」
 辛亥革命に際しては南社の一員であり上海商務印書館に勤務していた。漢籍が三千種あり他に洋装本5000冊も保有する。カサノバ、マルキ・ド・サド、ロレンスなどの西洋の「猥雑文学」収集の草分けでもあった。

 ■ 胡適 Hu Shih 1891–1962
 人民中国の成立と同時に米国へ亡命し、のち台湾へ定住した胡適の場合、その書は見事に二つに分かれたと云える。大陸にいた時の蔵書8699種は自らが学長を務めていた北京大学の図書館に現在収蔵されており、台湾時代の蔵書3813種は同地の胡適記念館に残っている。これらは併せて12512種にも上るので、冊数にすれば相当のものになろう。この二つを合わせた中国語・英語・日本語の総目録が発行されている。晩年の胡適は禅宗の研究に集中していた筈なのでその意味からも個人的に興味深いところである。

 ■ 沈仲涛 1892‐1980 
 上海商務印書館に勤務していた。この出版社は革命家の根城であったが名のある蔵書家も幾人か生んでいる。彼は人民中国の成立と共にに台湾に逃れたが生涯をかけて集めた善本珍積を積んだ船が沈み千冊ほどしか残らなかったそうである。

 

 

 ■ 葉霊鳳 Ling-feng Yeh 1905-1975
 簡体字の叶灵凤と繁体字の葉靈鳳では字面の印象が可成変わる。モダニズムの作家である。後期創造社の中心メンバーだが日本留学経験はない。戦前に既に万巻持っていたが抗日戦争の際失った。戦後は香港に住みこの都市国家を代表する愛書家の一人であった。コレクションは中文大学や広州の図書館に寄付された。

 

 


 民国政府は人民中国の成立と同時に台湾へ逃れ、その際多くの文化財と共に貴重な書籍も海峡を渡った。例えば、かつて楊守敬が日本で買った書の多くも今は台北の故宮博物館に所蔵されている。
 規模の大きな蔵書家が多い中国篇にあってカテゴリーを作る程の冊数ではないが、興味深い人物として他に魯迅(Lu Xun 1881–1936)の存在がある。上で取り上げた胡適と並び近代中国を象徴する知識人である彼も著名な蔵書楼が集中する浙江の地に生を受けた。
 魯迅の蔵書は四千ほどだが、注目すべきは日本語の本が全体の四分の一を占めていることである。これは我が国への留学経験のある彼の場合、日本語書物が情報源としてその後の生涯においても大きな役割を果たしていた事の現れであろう。 但し、肝心の日本文学の本はわずか百余点であって、大半が西欧やロシアに関する日本語書物である点に注意を向ける必要がある。魯迅は欧米文化の吸収が日本に比べて遅れた中国にあって、日本語を西欧文化を学ぶためのツールとして利用していたに違いない。

 

 

 

§ 中華人民共和国
 人民中国の成立以降は政府要人や一部学者などを除けば規模の大きな個人蔵書はさらに少なくなる。

 


 ■ 毛沢東 Mao Zedong 1893-1976 
 読書好きな彼も専用図書館に数万冊あったと云われている。


 ■ 康生 Kang Sheng 1898–1975
 文化大革命の陣頭指揮を執った事で二十世紀の情報機関の長ではエジョフやベリヤに並んで評判の芳しくない人物である。然し絵や書に優れ、硯をはじめとする骨董や、稀覯書のコレクターだった側面はさほど知られていない。文革当時に各地から略奪した書物は3万4千冊、古物は五千五百といわれ、書には自らの蔵書印も押していた。康生は文革末期に死ぬが、そのコレクションは北京・景山で現在公開されている。

 


 ■ 鄭振鐸 Zheng Zhenduo 1898–1958
 作家。文学研究者。「玄覧堂」というのは蔵書楼ではなく彼の書斎の号である。飛行機事故で亡くなった後10万冊に上る蔵書が国家に寄付されている。文化面で要職を歴任した彼にはこれほどの蔵書を持つ事が許されていた様だ。

 ■ 巴金 Ba Jin 1904–2005
 巴金も本は多く自宅は本に溢れていたそうである。国立図書館、上海図書館、中国現代文学館などに分かれたそれらの総数は7万に上る。巴金はとりわけ洋書が多く洋書の蒐集に関してはのちの現代作家は及ばないそうである。

 ■ 宿白 Su Bai 1922-2018
 考古学者・書誌学者。北京大学教授。共産国家であてがわれた狭い住宅の四部屋のうち三部屋はおよそ1万冊の本で埋まっていたという。昨年亡くなったが、その八年前に北京大学へ11600冊を寄付している。

 

 


 管理人は、人民中国にあって鄧小平の改革開放の以前に最も多く本を持っていたのは郭沫若あたりではなかったかと睨んで居る。
 彼は文化人では第一等の地位に終始あり続けた。之に加えて歴史・考古から文学・社会科学に至るまで学問の幅が極めて廣く博覧強記である。世渡りが上手く、其の変節ぶりは安岡正篤など多くの人から謗られもした。何処となく我が国の羅山に似ていない事も無い。このタイプの性格は概して書を集めやすい。独り身で日本へ留学した苦学生の時分ですら身辺には1300冊も置いておった。然るに北京で晩年棲んで居た邸宅は今は博物館として利用せられる程に広壮なものである。
 残念ながら北京郭沫若記念館に残る蔵書の数は今回確かめる事が出来なかった。分かればまた追記する。

 

 


【終わりに】
 中華民族は概して記録民族である。
 印度人が神秘的・抽象的な哲学的思索に没頭し複雑な論理を弄びながら、自らの身辺には極めて無頓着・不衛生で、其の民族・国家の歴史においても事細かな記録を残そうとしなかったのに対し、中国人の世界観は概ね現世的で利に敏く、其の民は抽象的思索に埋没することは好まないながらも、春秋以来膨大で事細かな記録を書き残し、史に於いてこそ自らの本領を発揮した。
 中国の哲学は宋学を別にすれば殆ど見るべきものなく、其の宋学すら精密な印度論理学に比すれば頗る曖昧で詰めが甘い。之に反して、印度は歴史の面でその基となる史料が少な過ぎ、大雑把な王朝の交代以外には其処で一体何があったのか皆目分からぬ始末である。然るに中国では、何年何月何日の何時頃首都長安のどの条どの辻で誰と誰の喧嘩があったのか迄記録に書き残されておる有様である。
 清代は征服王朝とは云え中国人のそうした気質の全面に出た時代であり、其れは宋学が徐々に廃され考証学に圧倒されてゆく成行からも伺う事が出来よう。こうした傾向・風潮は人をして書を蒐集させやすい。清代の中国にあって他の文化圏以上に大きな蔵書家が出たのはその為かとも思われる。
 それが西欧列強に荒らされて以来のこの百数十年は戦乱や共産国家の支配などのため中国に以前の様な大蔵書家は余り出る事は無かった。民国成立後も国内は軍閥の跋扈する時代となり、中共の支配以降には更に蔵書家の名を聞かなくなって久しい。
 既に紙の本の時代ではなく又個人蔵書の時代でもないが、中国人の情報収集面での完全主義は今尚健在であり現在の国家隆盛の中で是がどのように発揮されてゆくのかは注目すべき処であろう。

 

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