蔵書家たちの黄昏

反町茂雄の主題による変奏曲

[298] 医薬・本草書(ジャンル別蔵書家2) 

[298] ジャンル別蔵書家 医薬・本草書

 我が国の本草学というのは、単に薬物の効能についての学であると思われがちだが、決してそれにとどまるものではなく、凡そ天然に産生するものの名称・異名・形状・産出状況・分布から、農業および水産面における栽培・養殖にまで至る自然科学・技術のかなりの部分を占める広義の学であった。つまり、経験的知識の集積に過ぎないとはいえ、近世以前における自然に関する知の源泉をなすものであり、その重要さは今日では理解しにくい。(この事は医薬・本草書のメッカである杏雨書屋が常陸弥壮次のエレキテル・雷関係のコレクションなども受け入れている点からも明らかである)
 逆に言えば、明治になって西欧の知識大系・技術の習得・利用が導入されて以降には、実用的観点からはこれらが顧みられなくなったのも当然といえる。

 反町茂雄による日本の蒐集家の選択にもし癖があるとすれば、まず視点が江戸・東京中心な点だろうか。従って京・大阪方面のコレクターで漏れた人がやや多い印象だ。
 次に、彼の専門であった和本偏重気味で、漢籍に重心のあるコレクターに厳しい傾向が見て取れる。そしてこれと重なるが、古書籍商としての相場感覚が影響したためか、需要が多く価格も高かった江戸の軟派文学における収集家に較べると買い手が少なく価格も低かった医薬書・本草書・考証などの収集家で漏れた人が随分目立つ点、これらをとりあえず後知恵的に指摘することができると思う。
 もちろん反町さんもそれぐらいの事は先刻承知で、彼程仕入れのために京・大阪へ足を運んだ古書籍商は同時代で他にいなかったし、畿内のコレクターの趣味の洗練と、コレクションの質の高さ(例えば彼の郷里の新潟の素封家などに比べて)に関しても、幾度となく言葉を尽くしている。また晩年に近づくにつれ、医薬書・本草書を重視する姿勢も強くなってきた。ただそうは言いながら、今日的な視点から振り返ってみると、専門外という事もあってこのジャンルにはかなり奥手であった印象は否めない。

 たしかに日本の医薬書は明治期に近代医学が入ってきて以後、その価格は大きく下落している。また従来漢方医学の権威とされてきた家々がこの時期に多く医を廃業し、所蔵してきた書を手放した事も価格低落に拍車をかけた。ただこれは主に実用的観点からの話である。
 むしろこれらを稀覯書という観点から捉えて大量に購入したのが、楊守敬をはじめとする清末の蔵書家たちであり、医書のみならず諸分野に渡った考証学者の草稿などがこの時期に多く日本から離れ中国へ渡ることとなった。そしてこの後登場する日本におけるこの分野のコレクター達も概ねこういう考えに倣って蒐集を始めるのである。(そうはいってもこの分野の蒐集家は概ね医学・薬学系の人が中心である)

 以下に医薬書・本草書の分野における代表的なコレクターを並べてみるが、このジャンルで重要な存在になると、やはり本篇でもカテゴリーを設けている蔵書家が多い。重複を避けるため記述済の人に関してはそちらへ誘導することにしたが、特に重要と思われる武田と福井には関しては末尾でもう少しく詳しく解説する事にした。

 

≪ 1 近世以前≫
 まず前史として、実用的観点から医薬書・本草書が重視されていた時期の蔵書家としては、やはり日々の診療行為でこれらを必要としていた医家のうちから東西の代表格を挙げておく。かたや徳川将軍家、かたや天皇家の侍医の任にあった。

□ 多紀家 ( 江戸の蔵書家 参照)
□ 福井家 ( 江戸の蔵書家 参照)本頁末尾でさらに詳しく触れる

 

 名高い養安院蔵書は本篇で省いたが載せるべきだったかも知れない

★ 曲直瀬正琳(Manase SHourin 1565-1611)
曲直瀬道三に入門しその家名を継ぐ。(但し本家は今小路家であり正琳は奥医師養安院家の祖になる) 豊臣秀吉から徳川氏へ主君を替えており、他に正親町・後陽成の両上皇も拝診した。
その蒐集は養安院蔵書と呼ばれ殊に朝鮮版の古医書で知られる。これは朝鮮の役の際に秀吉が向こうから奪った拉書であり正琳が豪姫の治療に功あった事から拝領したと言われている。明治維新後売却され今は諸庫にあるがこれらは川瀬一馬が高く評価していた

 

 江戸後期にあって医書の蒐集・校訂で多紀に次ぐ大きな存在として奈須恒徳がいる。

★ 奈須恒徳(Nasu Tsunenori 1774-1841)
医学館では多紀元徳・元簡の下に学んだが、その家も代々幕府医官を勤め、曲直瀬の系統にあった。多紀からはのちに離れた。現在では曲直瀬道三の研究で名高い。
医官としての栄達を諦め、若くして隠棲、主に室町期以前の古医書を蒐集して「捧心方」「大同類聚方」「万安方」などを校訂してゆく。
日本医学史でも先行の黒川道祐『本朝医考』の誤謬を訂正し内容を増補した。それらは『本朝医談』に結実し、この方面でも大きな足跡を残した

 

 また桃山時代から散逸されずに今日までそのまま伝わった特異な例として田中弥性園文庫がある

★ 田中家 TANAKA 田中弥性園文庫
とくに注目すべきは保存状態の良い明版の医書なのだろうが、その後に加わった江戸期の和書も多い。「活人録」という目録には595部2306冊(医学関係が403部1573冊)ある。明治期の増加分も存在するので本来の田中家の蔵書そのままとは言えないかもしれない。
豊臣秀吉の家臣であった初代田中基則(Tanaka Motonori 1553-1595)はのちに秀長に仕えて、秀次が切腹した後には一族は八尾東郷村に移り、以後この地で二百年医業を営んだ。徳川幕府の残党狩りを恐れて村でひっそり暮らしていた事がこの文庫が無傷で残った理由だとも言われる。現在はやはり杏雨書屋に入っている。

 

 

≪ 2 明治以降≫
 明治以降の蒐集から医薬本草書の所蔵数の多いコレクターを順に並べてみると、おそらく以下の通りになる。
 主要なコレクションの多くが武田杏雨書屋に吸収される中で、中野康章の「大同薬室文庫」と清水藤太郎「平安堂文庫」は現在エーザイが作った内藤記念くすり博物館に置かれている。日本で杏雨書屋に次ぐ医薬本草書の拠点と言えばここになろうか。
 しかし中泉行正の眼科文献のうちの古医書の分量がどのぐらいかで順位は変わって来る。これは和洋漢を網羅した最大級の眼科関連の蒐集であり和本や漢籍がそのうちどのぐらいを占めるのかで武田を除く全ての古医書コレクターを量的に凌駕する可能性があるからだ(しかし和本と漢籍は主に終戦直後の価格低廉期に集めたもので比較的新しい蒐集らしい)。宗田一の一万三千冊の蔵書に関しても同様の事が言える。

1 □ 武田長兵衛 20000部 世界最大
2 □ 中野康章  20000部だが古医書は富士川をやや凌駕する量
3 □ 富士川游  8000部
4  藤浪剛一  6000部
5     東大図書館 3000部
6     大塚敬節  2614部5100冊
7  清水藤太郎 和書全体で3230部。大半が古医書らしい・・・ 
8 □ 土肥慶蔵  全体では10000部だが、うち古医書は1700部

武田長兵衛は( 昭和期の蔵書家 )でカテを設けたが本頁末でさらに詳しく触れる。中野康章は( 昭和期の蔵書家 )、富士川游は( 明治大正期の蔵書家 )、土肥慶蔵は( 明治大正期の蔵書家 )を参照のこと。
本文中カテを設けなかった藤波、大塚、清水の3氏については以下に。

 

 

★ 藤浪剛一(Fujinami Goichi 1880-1942)
慶應義塾大学教授。黎明期のレントゲンの権威である一方で、医学史に業績がありこちらの方面でも富士川游や呉秀三などに並ぶ存在といってよい。その乾々斎文庫は武田の杏雨書屋に買収されたが、曲直瀬家文書(これは曲直瀬=今大路家から藤波が直接購入した)や宇田川家文書など非常に貴重なものを含んでいた。

★ 大塚敬節(Otsuka Keisetsu 1900-1980)
昭和期における漢方復興運動の立役者の一人。その修琴堂文庫2985点も杏雨書屋に入った.

★ 清水藤太郎(Shimizu Fujitaro 1886-1976)  
大正・昭和期の薬学者・薬史学者。ことに薬史学では朝比奈泰彦に並ぶ権威であった。矢数道明、大塚敬節、木村長久などと共に刊行した『漢方診療の実際』は漢方治療の概要を西洋医学の用語で記述した初めての著作として中国語、韓国語、フランス語、ドイツ語などに翻訳され殊に中国語版は10万部のロングセラーとなった。
清水が生涯に蒐集した本草書・古医書(和書3230部、洋書647部、雑誌類数千部)からなる平安堂文庫は自らが参画にかかわった内藤記念博物館に寄贈されている。

 

他にこの分野で著名な存在として七氏を

★ 早川香邨(Hayakawa Sakou 1885) 
植物書を蒐集していた漬物商で、関東大震災で大半を失う。残った1000点が杏雨書屋に。奇しくもこの震災をきっかけに武田長兵衛が医薬・本草書の蒐集を始めるのだが、その最初の大きな個人蔵書買収がこれであった。 本名は佐七。三越日本橋本店の向かいにあった小田原屋店主である。東京を代表する漬物店と言われた程の店構えで大番頭小番頭などが多く働いていた。本人も銀行取締役を兼任したり自社ビルを建てるなど相当な資産家だった。ドイツ留學をして七年間植物学を硏究したというから一般的な漬物商のイメージとはかなり異なるかもしれない。「楂考書屋圖書目録」あり。参考文献としては、吉川澄美「日本橋漬物商小田原屋主人早川佐七の本草書蒐集とその周辺 島田筑波・武田久吉・伊藤純一郎との交流」がある。

★ 宍戸昌(Shishido Sakari 1841‐1900)
大蔵省国債局長を務めた。明治期の本草・博物学者である。この蔵書も杏雨書屋に入ったが、1935年と1936年に蔵書売立があって都立博物館にも幾分か渡っている。「海雲楼宍戸先生御旧蔵入札目録」あり。

★ 佐伯理一郎(Saeki Riichiro 1862-1953)
同志社病院院長・京都看護婦学校校長・京都 産院院長。関西在住の医史学の権威である。かのウィリアム・オスラーの弟子でもある。

★ 中尾万三(Nakao Manzo 1882∼1936)
生薬学者であり、あのロート目薬を発明したことでも知られる。正倉院薬物の研究、敦煌本『食療本草』の研究,著『漢書芸文志より本草衍義に至る本草書目の考察』など業績は多岐に渡る。
もう一つの顔が中国古陶磁器の研究でこちらでも令名を博している。

★ 三木栄(Miki Sakae 1903-1992)
大阪の堺で開業していた医師だが関西医史学では重鎮と言える存在である。殊に朝鮮医書の研究で有名。著書には「朝鮮医学史及疾病史」「朝鮮医書誌」などがある。
戦前に京城大学へ助教授として赴任していた時期に朝鮮版医書を多く集めており、これは思文閣を介して杏雨書屋へ移った。ちなみに三木の買い方は研究が済むとその資料を売却し,次の資料の購入にその代価を充てるというパターンだったらしい。順天堂文庫や北里研究所などにも資料が残されている。

□ 宗田一(Souda Hajime 1921-1996)
薬学史・医学史家である。1万3300冊に上る膨大な蔵書をもっておりそれらは現在国際日本文化研究センターに宗田文庫として所蔵されている。『宗田文庫目録・書籍篇』『宗田文庫目録・図版篇』あり

★ 松木明知(Matsuki Akitomo 1939-)
オスラーに関する蒐集でも有名でそれらは弘前大学に寄贈。

 あと呉秀三や渡辺幸三のものが興味深い

 

 

≪ 3 最大の古医書・本草書コレクター ≫
 武田長兵衛は昭和編で、福井崇蘭館は江戸時代編で取り上げたが、日本の蔵書の通史全体の中では記述は圧縮されざるを得なかった。ここでは分量を気にすることなくこの重要な存在にもう少し詳しく触れてみる。

 □ 武田 長兵衛 Takeda Tyobe 1870-1959. 1905-1980

長兵衛は武田薬品を経営する武田家当主が代々襲名する名である。その五代目と六代目による蒐集は杏雨書屋と名づけられ、医を中心に諸分野にわたる和漢洋の古典籍が多数収蔵されてた。その2万部10万冊は医薬古典籍の分野では文句なく世界最大のコレクションであった。
蒐集のきっかけになったのは関東大震災である。この震災では東大図書館、安田善之助のまつのや文庫、古書肆淺倉屋をはじめとする多くの蔵書が焼失し、大量の古典籍が灰燼に帰した。これを機に、当時の五代目武田長兵衛(武田和敬 1870-1959)は日・中・鮮の本草医書の散逸を防ぐために蒐書を開始する。六代目武田長兵衛も(1905-80)も拡充に努めた。
この武田家による蒐集の特徴は、豊富な財力を駆使して多くの文庫を買収する面にあり、それはやはり著名文庫の買収によって巨大化した岩崎静嘉堂を思わせる徹底ぶりである。1978年に武田家の個人所有を離れた後もコレクションは拡大し続け、百年近い蒐集活動の結果、現在では4万点 約15万冊を誇る。
この最高のコレクションにもし画竜点睛を欠くところがあるとすれば、やはり「医心方」の一件であろう。戦後、半井家所蔵の「医心方」原本を購入する話が一旦はまとまるが、税金その他の問題で取りやめとなり、結局文化庁に買われてしまった。我が国医学史において半井家が秘蔵してきたこの原本が持つ意味に鑑みれば、もし武田家がこれを購入できていたなら、膨大な稀書珍籍に溢れたこの文庫においてもさだめし陽明文庫における「御堂関白日記」自筆本のような存在となっていたのではあるまいか。

五代目の意を受けて初期のコレクションで購入を仕切っていたのは新薬部長の伊藤純一郎である。良い本ならいくらでも金を出すという主人の意を受けての一切値切らない買いっぷりは伝説的であった。彼自身も以前から本草書を蒐集していてそれが五代目に影響を与えたともいう。
書肆では、佐々木竹苞楼、思文閣、井上書店などをよく使っていた事が知られている(但し佐々木竹苞楼は医書は殆ど扱わなかった)。下記にその主な購入を記しておいた。

1929 長沢規矩也の仲介で、宋版の『備急総効方』『本草衍義』、元版の『聖済総録』『経史証類大全本草』『宋提刑洗冤集録』、明版の『袖珍方大全』『救荒本草』『重修政和経史証類備用本草』を購入する
1932 早川香邨の植物学書を購入。これが契機になって蒐書に本腰を入れてゆく 
1935 宍戸昌の宍戸文庫を購入
1935 内藤湖南の恭仁山荘善本を購入。国宝の『説文解字』『毛詩正義』『史記集解』,重文の『古文孝経』『春秋経伝集 解』『遍照発揮性霊集』
1935 小野蘭山の本草学資料を購入
1935 対馬伊津八幡宮伝来の宋元版『磧砂版大蔵経』4962巻を購入
1944 藤浪剛一の乾々斎文庫を購入
1945 福井崇蘭館の旧蔵書の一部を購入
1951 神田喜一郎の仲介で仁和寺本『黄帝内経太素』『新修本草』、宋版の『外台秘要方』を購入
1951 三木栄から朝鮮版医書類を譲渡される
1954 佐伯理一郎の古医学資料を購入
1955 中尾万三の蔵書1159部5591冊が入る
1956 藤田吉王の医家墨跡271点が入る
1959 三木栄から洋装本図書を譲渡される
1960 弘治原本『本草品彙精要』を購入
1961 奥村良筑の蔵書200余点を購入
1962 年江馬榴園の蘭学書を購入
1964 坂本恒雄の医家墨跡を購入
1965 江馬家の伝来書
楢林家の伝来史料
東野家の医学書
渡辺蔵書
羽山蔵書
乾家蔵書

   この他、上記の福井崇蘭館本はその後も多くを蒐集している。また名古屋の医家平出家の旧蔵書もかなりの数が杏雨書屋に入っていると言われる。

1978 六代目武田長兵衛氏は亡くなる3年前に杏雨書屋の全蔵書を武田科学振興財団に寄贈。武田家の所有を離れた後の展開については筆をおく。

 

 

 

 □ 福井家 福井崇蘭館 FUKUI FUKUISUURANKAN

万巻の書を有してたとされる福井家の蔵書は全貌が捉えにくい。いかにも京都人というか、このお宅は蔵書の処分の仕方が独特で、百年近くに渡って彼方此方にチビリチビリと売ったからである。結果あちこちに散したが、現在その多くを所有しているのはやはり武田の杏雨書屋であろう。
福井家は、代々禁裏の御典医を務めた家柄。家の隆盛は晩年に幕府医官として江戸にも召された楓亭(Fuutei 1725-92)以後のことになる。子孫は、榕亭(Youtei 1753-1844)、棣園(Teien 1783-1849)、恒斎(Kousai 1830-1900)と代々典薬寮で重きをなした。
江戸期の朝廷の禄高は10万石程で、これを多くの公卿達(明治期に授爵した家だけで200家もあった)にも分けたため、筆頭の近衛家ですら1500石しかなく、この時期のお公家さんたちの貧しさは語り草となっている。注文が途絶えた事で内情がお苦しいのだろうと察した御用達のとらやが御所の塀越しにお菓子をこっそり投げ込んだ話は有名だ。
天子様を拝診していた福井家も表向きは数百石程度であったが、名医の誉れ高く諸方の金持ちからの診療依頼が絶えなかったために、この家だけは実収入は莫大だった。黒門元誓願寺南にあった自邸「福井崇蘭館」は内部は中国風の造りで展望台から京の市街みが一望できた。庭の豪奢さは過剰なほどで、書を借りに遥々江戸から訪れた狩谷棭斎も辟易している。戦後になって村口四郎が初めて福井家に足を踏み入れたのは小松原へ移転した邸宅だったが、こちらも三千坪もあり周囲一帯の土地は福井家所有であったという。
こうした豊富な財力と高い見識により、多くの古美術品や貴重な古書籍を福井家は代々蒐集してゆく。宋版本を多く所蔵し、医薬書の分野では量・質ともに江戸後期の上方における代表的な存在といえた。医家による医薬書の蒐集は、医療技術の秘匿に関わるため外部には見せないことが通例であるが、福井家もその例に漏れず、後に触れる『新修本草』を巡っての狩谷棭斎と福井榕亭の応酬は、双方の性格をよくあらわしていて興味深い。
明治の初めに多紀氏及びその周辺など江戸の医書の多くが清人に買われた後も、上方にあった福井家はおおむね無傷であり、逆にこの時期に伊良子・荻野・高階・三角など他の漢方医が手放した本も自らの倉に納めて、コレクションは一層充実を極めた。
ただ、恒斎が東上し新東京で侍医となった後、漢方医は彼を最後にお役御免となったようで福井家も医業はこれを以て廃している。これよりのち福井家の崇蘭館本が市場でチラホラみられるようになった。
多くが流出したのはやはり終戦直後であり、この頃村口書房の村口四郎が福井家を訪れたエピソードが中々ユニークだ。
福井家が懇意にしている京大の先生二人に連れられて来たのだが、三十畳の応接間に通されたものの、先生二人の座布団はあっても自分のだけがない。そして主人のために一番大きな座布団が敷かれている。「これは相当うるさいお宅だな」と村口は思う。出された品は宋版の劉夢得の詩文集12冊セットでその日はそれだけ。先生から「村口さん、みせて戴きなさい」と渡され、その後で漢籍に詳しい先生がみて誉めそやす。不案内な村口が分からないながらも奮発した値を書いて先生に見せると、首を横に振られる。さらに高めの数字を出すと「奮発しなさい!」とモーションをかけられ、それで最後に思い切った数字を書くと「まあそれ、御主人に申し上げてごらんなさい」と言われて主人からもОKを貰う。そんな感じであった。(この宋版は村口の手によって天理に入るが、のち国宝に指定されている)。
以後、月に2,3回わざわざ京都まで伺いに行くが、決して多くは出さず、一点一点出すのが特徴で、中には後で重文に指定されたような本もあった。村口が引き受けたのは、福井家の本業以外の国書漢籍のみであり、家にかかわる医書・本草書は「子孫に残します」と売らなかったという。
しかし、同時期に武田長兵衛の杏雨書屋へ仁和寺本『黄帝内経太素』(重文)、『新修本草』(重文)、宋版『外台秘要方』などが渡っており、それより以前、すでに戦前からも「崇蘭館蔵」の印のある本は多く出回っていた。大正期にさかのぼるケースさえあったという。
今から15年ほど前にも崇蘭館本が古書市場でよく現れたそうで、これらのいくつかは杏雨書屋が購入したという。また平成22年以降オークションで中国の業者の手に落ちたケースもみられたことから、文化庁が蒐集に乗り出し、纏まったものが売りに出された機会に11億5千万円で購入し、武田薬品の杏雨書屋へ寄託された。これらには、写本のみが残っていて原本は行方不明であったもののオリジナルや、今回初めて存在が知られた天下の孤本などが含まれており、量のみならず内容的にも「最後の放出」といった趣である。(然し京都人なのでまだ何か残してるかもしれない)
このお家の人たちはやはり賢いのだろう。福井家は古美術コレクターとしても著名で、その蔵書が「崇蘭館本」と呼びならわされたのに対し、こちらは「小松原もの」という通称があった。本だけでなく古美術品も多く処分されていたために、かなり知能的な戦略を持たれていた印象を抱く。結果的に書の多くは散逸したが枢要なものは最後まで取って置かれたようだ。

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テーマの著者 Anders Norén

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