蔵書家たちの黄昏

反町茂雄の主題による変奏曲

[18] 鏡像フーガ付録3 百姓の蔵書

 「反町茂雄による主題」とそれに補足した「鏡像フーガ」では、日本の書籍蒐集のメインストリームばかりを中心に紹介しているので、そこから外れた地方の農家などの蔵書に関してはほとんど触れていなかった。(例外は山梨の渡辺家ぐらいだろうか)
 そこで、この頁でごくごく簡単に解説してみることにした。まず、経済的に豊かで教養ある村役人層の蔵書の例をいくつかみてゆき、その後でそれなりに広く知られた蔵書を二つ紹介する。

 

【第一章 江戸周辺の農村】
 まず、全国的に知れ渡った蔵書というのではないにせよ、地方の素封家で目録の現存する家について、大変参考になる研究があるのでそれに触れておく。
 「近世蔵書文化論」(工藤航平)にあげられている五つの家のケースである。ただこの著作自体は村役人層による文書の編纂・作成を扱った部分が大半で、蔵書に関しては1,2章が充てられているに過ぎない。
 そしてこの五家に共通する大きな特徴は、こうした名主層の蔵書の場合、購入(或いは筆写)した書籍と、自ら村役人として作成した文書群が一緒に管理されてる点である。
 同時代の世界水準に比べて高いといわれる江戸の識字率には名前が書ける、或いは平仮名が書ける程度のものも恐らくカウントされているのだろうが、それなりの蔵書を持ちそこそこの本を読むためには、こうした公の文書を作成する義務のために、読み書きの能力がそれなりの水準に達している必要がある。目録が残り蔵書内容を確認できる五つの家がいずれもその類型に属していることは、この事を証明しているようにも思える。

 

 

Ⅰ 下総国 印旛郡 竜腹村 海老原家

 同村の草分け百姓で代々村役人を務めてきた。近世後期には山林植樹、回漕業、質屋経営も行う。
 当主長彦の作成した「書物改貸付改覚帳」によると伝記・諸系図。法制・武鑑・宗教関係・教訓書・往来物・辞書・節用集・年代記・地誌・読物・俳諧・狂歌・和歌・華道など多彩なジャンルで、計265部(村役人として自ら編纂した文書も含む)。蔵書と文書類が一体になっており、後者が多くを占める。
 長彦本人が海老原家からは初めて名主に就任したので、役務の手控えや役務参考資料などを自ら多く編纂する必要があった。

 

 

Ⅱ 武蔵野国 幡羅郡 中奈良村 野中家

 同村の草分け百姓で 同村のうち、或る旗本の所有部分の名主役を代々務めた。幕末には養蚕も手掛けた。
 当主彦兵衛による「萬書籍出入留」は貸し出し記録なので蔵書の全部ではないが335件が記されている。やはり半数が文書類。
 書籍は政治関係・実用書・軍記物・往来物・教訓書・儒学書・算術書・俳諧・狂歌・地誌・絵図など。

 

 

Ⅲ 武蔵野国 埼玉郡 西袋村 名主小澤家

 八条領35か村の惣代を務めた地域指導者といえる存在である。
 当主豊功の蔵書目録には260冊。やはり村役人として自ら編纂ないしは収集した文書と書籍が一体となった目録である。広域支配単位である八条領全体を管轄していただけにそれに関係した編纂物が多く、書籍も地方制度に関する規則や慣例を収録した参考書類が多い。
 豊功は江戸に遊学した後に名主として跡目を継いたというから、それなりの知識人だったはずである。

 

 

Ⅳ 加賀藩 倉見村 喜多家

 もとは畠山氏の家臣で七尾城の陥落後は前田家から扶持を受けた扶持持ち百姓として696石を有した。加賀藩特有の十村制度において十数か村を管轄した地域指導者である。地主経営のほか米売買、材木業、海運業、酒造業、質屋なども営む。
 七代当主義真の作成による「書籍録」は、①六代当主までに蓄積されたもの、②七代当主自らが蒐集したもの、③八代当主義之が後に増補したものの三つに分かれている。
 主要部である義真自らの蒐集にかかる②は、125種のうち文書は27ほど。書籍は天下国家の政治思想・加賀藩に関する政治思想、松平定信関係の著作や農政関係などがほとんどを占める。

 

 

Ⅴ 下総国 香取郡 万力村 百姓金杉家

 まず、注意されたいのは金杉家が上述のような村役人を務めた家ではなく「百姓」「農夫」にあたる点である。ただ、名字の許されているところから、小作人層ではなく比較的上層の百姓とみられる。
 当主貞俊作成の「諸書物巻数覚帳」によると60ほどのうち、刊行された書籍と自ら筆を執って著した文書の割合はほぼ半々。貞俊も村の運営に関わっていた。しかしこれは蔵書の全部ではない模様。彼自身は国学や性理学に関係・関心があったという。
 ちなみに、この目録は貞俊晩年の1858年に作成されている。坂本龍馬が北辰一刀流の免許皆伝を受けた年で、黒船が来たのは六年も前になる。もはや幕末であり、この頃になるとこの層まで読書習慣が広まってきたようだ。

 

 

 そもそも農家で先祖の蔵書目録が残ってる家など相当に限られる。以上みてきたように、Ⅴを除けばいずれも名主階層で、なかにはⅢやⅣのように十数か村、三十数か村を管轄する家すらあった。地理的にも、Ⅳを除けば出版文化の中心であった江戸の周辺に位置している。
 にもかかわらず、所蔵数は文書を入れても数百の単位であり江戸の代表的な蔵書家たちに較べると一桁では済まず、二桁少ない。しかしこの事はむしろ江戸の学者・文人を中心とする著名蔵書家(主に武家で富裕な商人などが混じる)が地方の大名蔵書を圧するぐらいの質・量両面での規模を誇った事の方が異常だった、ともとれる。書物の形態によるキャパシティを計算に入れる必要はあるが、これら名主たちの所蔵数は独立前のアメリカの著名な地方蔵書家に並ぶ規模には充分なっているのである。
 また目録のいくつかが「貸し出し目録」であることからも、名主層の間で本の貸し借りが頻繁に行われていた様子が伺え、彼ら自身の読書の範囲も自らの目録に残ったものだけではない筈である。ほかに貸本屋の利用もあった。

 

 

 

【第二章 大阪周辺の農村】
 野間光辰による業績以来の蓄積のおかげで、貸本屋の利用がとりわけ顕著に跡付けられているのが、関西方面の農村である。それらの集大成的な研究である横田冬彦「日本近世書物文化史の研究」からの抜粋により、今度は上方方面、大坂近郊の村へ視点を移してみることにする。
 下記の森家は購入分のおよそ二倍の量を貸本として借りていて、実際の読書量はその蔵書量を遥かに上回っている。村内の他の読書家との貸し借りも多い。

 

Ⅰ 河内国 北河内郡 日下部村 森家

 同村の森家はこの時代のごく平均的な庄屋で(二人庄屋体制)、当主長右衛門の日記(1727~39)が、利用していた三件の大坂の本屋との取引の様子を精細に記録している。
 日記からは村内での貸し借りの様子を通じて、読者層が村役人レベルに限られず、村の年寄、筆耕、在村医、寺僧、寺子屋師匠など広く分布してた様子も伺える。
 年代のわからない目録によると、121部394冊の書物が記載されていた。大きな部分を占める儒学書や、漢詩文及びその作法書が系統的に集められている。しかも医学・博物学など目録に載せないものをこの他に多く所蔵している。当主は貝原益軒の大ファンだったのでその著作をすべて買い集めようとしていた。

 

 

Ⅱ 河内国 志紀部郡 柏原村 三田家(在郷商人)

 三田家は福島正則の旧家臣水野氏で大坂夏の陣の後、改名し当村に落ち延びてきて肥料問屋を営んだ。初代の浄久は松永貞徳門下で西鶴とも親交があり、「河内鑑名所記」の編纂によって元禄時代の在村文化を代表する存在として研究対象にもなっている。この家にはやはり二件の本屋が出入りしていた
 二代目で家は没落し蔵書は売りに出され、その際の目録が残っている。在村文化人として知られた存在だけあり冊数は140部1054冊に及んだ。二代目は先代が蒐集した漢詩文、儒書、浮世草子、軍書などを売り、仏書を購入していたので、目録の蔵書構成にはそれが反映されている。しかし文芸的教養書、読本、実用書まで総体的に多角的な内容である

 

 

Ⅲ 摂津国 川辺郡 在郷町 伊丹 八尾八左衛門(酒造業)

 目録はないものの、日記が残っており、九十四箱、九十の書名という記述から上記と同等の規模の量が推定できる。
 やはり他の読書家との間での貸し借りが多い。主人は近辺の寺で行われた論語の講釈や、講演形式での「大学」の講義なども聞きに行ったりして情報摂取が蔵書以外に多岐に及ぶ。興味深い点は大坂近郊の書物流通のスピードに関する面で、所蔵する書には刊行後数年のものが多く、「薬籠本草」などは刊行直後に読んでいることだ。
 御本人の趣向も、和文の仏書を好んで読んだり(大衆向けに和文のものが多く出版されていた)漢詩文も嗜むなど、大変に幅広い教養を持っていたことが伺える。

 

 

 近世の農村社会においては、上方の方が蔵書の規模が大きく、読書に関する様々な交流も色々と盛んである。ジャンルは、思想・宗教を中心にあらゆるジャンルを幅広く集めているが、あくまでも儒学書や仏書を基本に置いていて、かなり真面目な印象を受ける。
 そのため、そういう固いものは購入し、読本などは借りるという傾向もみられるが、もちろんそれには限られない。

 

 

 

【第三章 農村の蔵書家】

 こうした農家の蔵書で全国的に著名なものは?と問われた場合、今の管理人で思い浮かべる事のできるのは、山梨の渡辺家の青洲文庫、新潟の桂家の萬巻楼、鳥取の河本家の稽古有文館の3つぐらいだろうか。このうち、渡辺家青洲文庫は本篇で取り上げたし(参考 明治大正期の蔵書家 反町茂雄が名前をあげた蔵書家の解説の後で、管理人権限で追加した狩野亨吉以下8名の末尾)、桂家萬巻楼も記載するかしまいかで少し迷った。
 以下では、桂家萬巻楼と河本家稽古有文館の2つに触れることにする。

 

 

★ 河本家 「稽古有文館」 KAWAMOTO KEIKOYUBUNKAN

 伯耆国 八橋郡 篦津村
 河本家はもとは尼子氏の重臣であり月山城が落城した後、赤崎村に落ち延びてきた(1571年頃)。1670年頃に現在の篦津村へ移転する。これ以後代々が大庄屋の地位にあり、山陰きっての名家として戦後まで連綿と続く。
 つまり百姓とはいっても元は武士であり、野に下った後にも松江城主堀尾家と縁戚関係を結ぶほど格式の高い家である。鳥取藩主も地方巡視の際には同家に立ち寄り休息したという。
 同家「稽古有文館」に伝わる蔵書はおよそ古典籍880点(4800冊)に及ぶが、多くが江戸期の版本で、中には写本なども含んでいる。蒐集期間は明治大正期まで長きにわたり、特に幕末以降の12代通繕と13代芳蔵が多くを集めたそうである。当然ジャンルも、文学・歴史・ 仏典・漢籍など多彩である。この蒐集は数百年に渡っており歴史があるので稀少本も多い。国文学研究資料館などが調査に入り島根大学には目録もあるようだ https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Home/3290515100/topg/kawamoto.html
 尚、河本家はその住宅や土蔵も数百年に渡る年月を経ており、重要文化財の指定を受けている。

 

 

★ 桂家 「萬巻楼」 KATSURA MANKANROU

 越後国 蒲原郡 新津村
 桂家萬巻楼もかつては全国的によく知られた蒐集だった。
 同家1662年に能登から移って以来、現在まで新潟屈指の名家として続く。酒屋や質屋も営み、4代誉章(Katsura Takaaki 1734-1796)以降は新発田藩で大庄屋をつとめた。萬巻楼を立てたのも彼である。
 書籍は主に京都から求めたらしい。この楼は文化交流の拠点となり誉章自身も俳諧を能くしたという。江戸からは亀田鵬斎が訪れ、6代誉正は伊勢旅行の際には松坂で本居内遠に入門している。更にその二年後には鈴木重胤を通じて平田篤胤の門下にもなった。
 昭和になってこの楼(萬巻楼にその後作られた新萬巻楼が加わる)の蒐集は競売にかけられたが、東京の大蔵書家のそれに勝るとも劣らない当時2万円もの値が付いている。運び出した量は貨車二台を占めた。

 

 

 河本家は農民というよりも豪族が農地経営をしたケースなので、百姓蔵書ではなく地方の名族の蔵書と本来なら捉えるべきだったかもしれない。

 桂家も地元では知らぬ者のない名家で、祖先はいくつかの説があるが、桓武平氏の末裔を自称している。
 このタイプの大地主であれば、名だたる存在は全国に幾つもある。多くが農地解放まで続いた家であり、秋田の池田家などは当主が私設図書館を作ってたというから、かなりの規模の蔵書も予測される。なので、今度はそれらにも一瞥を与えることにする。

 

 

 

【第四章 巨大地主】
 日本最大の地主といわれた山形の本間家や、山林王として名高い島根の田部家をはじめとして、小さな大名以上の経済力を誇った農家はわが国には少なくない。
 ちなみに戦前の地主王国は新潟・秋田・宮城・山形などで、おもに東北や日本海側に多く分布している。50ha以上の地主数では新潟256人、秋田212人、宮城162人、山形124人となり、500ha以上になると半数が新潟にあった。大正13年の調査では1000ha以上を所有する地主は北海道を除くと日本に九人しかおらず、うち新潟が五人を占めている。
 近世初頭の地域豪族がそのまま続いている例もあれば、明治以降に社会事情の激変に対応できず零落した農民の土地を買い取って巨大化した例もある。例えば東北3大地主では、本間家が江戸時代からの巨大地主だったのに対し、あとの斎藤、池田の2家は家自体の歴史は古いが規模を大きくしたのは明治6年の地租改正を上手に乗り渡ったためであろう。
 下に代表的な存在を挙げてみた。

 

 

山形 本間家 3600ha 東北3大地主のひとつ 全国1位
宮城 斎藤家 1500ha 東北3大地主のひとつ 全国2位
新潟 市島家 1466ha 山林・宅地をと併せると2000haを越えた
新潟 伊藤家 1385ha 昭和期では新潟最大
新潟 田巻家 1300ha 小作人2794人を抱えた
新潟 白勢家 1000ha~
新潟 斎藤家 1000ha~
秋田 池田家 1054ha 東北3大地主のひとつ
新潟 渡邊家 水田700ha 山林1000ha 全盛期は75人の使用人
宮城 我妻家
新潟 笹川家 800ha
新潟 田巻家 700ha 上記田巻家の分家
茨城 坂野家
山形 風間家 450ha
富山 内山家
愛知 糟谷家
岐阜 三宅家
大阪 向井家
兵庫 園田家
香川 細川家
岡山 森江家
島根 山崎家
島根 江角家 186ha 農地改革時には島根で七位
島根 田部家 山林25000ha 山林地主として日本最大
奈良 土倉家 山林9000ha 資産は三井家に匹敵すると言われた
鳥取 石谷家 山林地主

 

 

 これらのうち最も大きな存在はご存じ酒田の本間家で、所在地を支配する藩主以上の経済力を誇っていた。小作人も2700人いたらしい
 が、山林地主まで含めると「島根の天皇家」とも称された田部家が最大であろう。二万五千ヘクタールというと本間家の七倍にあたり大阪市の面積に匹敵する。昔は山陰から山陽に抜けるには田部様の土地を通らなければならないと言われたものだった。子供の頃ブラジルに大阪府と同じぐらいの農家があると聞いてへぇーと思ったものだが、大阪市ぐらいであれば日本にも実在したわけである。
 しかし資産価値という話になると、奈良の土倉家の九千ヘクタールはこれを凌いでいないだろうか? この家の富は三井家に匹敵すると言われたこともあった。
 とにかく地主話は面白いのでこの辺で切り上げないと脱線してしまいそうである。それでは、こうした日本最大級の農家の蔵書から、分かってるものだけを今からみてゆくことにする。

 

 

 

 

★ 山形 本間家 HONMA 本間美術館
 酒田の本間家は維新後に公開の文庫を設立している。
 もともとは1758年に同家三代目当主の光丘が文庫を備えた寺院建立を幕府に願い出たが許されなかったという経緯があり、170年後の1925年になってその遺志を継いだ当主光弥が本間家に伝来した和漢の書2万冊をもって財団法人光丘文庫を設立。これに加えて建設費、運営基金として10万円を寄贈した。 
 大名並みの経済力を持つ豪農だけあり、累代の蔵書も平均的な大名蔵書を上回る規模のようだ。ちなみにこの光丘文庫にはさらに他の旧家の蔵書や、大川周明や石原莞爾など酒田に縁故ある人々の蔵書も入っている。施設は銅板ぶきで当時としては最新の鉄筋コンクリートブロック造り2階建であったという。1950年、戦後になって酒田市が光丘文庫の建物と蔵書を借りて酒田市立図書館を開設した。八年後の1958年には財団法人光丘文庫は建物と蔵書を酒田市へ寄付して自ら解散している。
 しかし本間家の蒐集は勿論これに留まるものではない。同家は国から文化財に指定されるような貴重な武家文書を多く集めていて、それらは古美術品のコレクションと共に本間家美術館に収蔵されている。
 とりわけ白眉とされるのが「市河文書」で、この奥信濃の豪族市河家伝来の武家文書は、平安末期から戦国時代に至る四世紀間に渡る浩瀚なものであり重要文化財に指定された。これは市河家が山形の米沢藩士となったことから著名な郷土史家の伊佐早謙を通して本間家が所持することになったようだ。
 同家はこの他にも上杉景勝、直江兼続、伊達政宗ら戦国武将たちの武家文書を所蔵し、戊辰戦争に関わる史料でも名高い。

 

 

 

★ 秋田 池田家 IKEDA
 東北3大地主の一つとされる池田家は秋田県に大きな影響力を持った資産家である。明治初期はここまでの大地主ではなかったが以後拡張に努め最盛期には千ヘクタールを超えた。
 当主は代々村長や銀行頭取などの役職を歴任したが14代文一郎(Ikeda Bunichiro 1893-1943)が広壮な庭園内に私設の図書館を建設する(1922年)。現在は重文指定の瀟洒な洋館で、蔵書は450冊。(このブログは著作権のある画像は載せないが秋田の豪農というイメージにそぐわないヨーロッパ式庭園なのでご興味ある方は検索して下さい)
 青少年へ開かれた公開図書館とは言うものの、ここは池田家の迎賓館的施設であったようだ。蔵書は恐らく洋装本であって家伝来の和漢の書はないかもしれないし、同家のプライベートな収集も別にあったはずである。
 基本的にこの頁は本篇の「 江戸の蔵書家 」の頁のサブページなのだが、この池田文一郎氏の蔵書の項だけは「 明治大正期の蔵書家 」と同じ時期の集書になる。

 

 

 

★ 富山 内山家 UCHIYAMA
 当主の内山弘正氏が戦前の社会運動家であったことからこの家に伝来した文書類は富山県立図書館へ寄付されている。のべ5663点。うち文書・記録類が3249点で、このブログが対象とする累代の蔵書は1734点2414冊ということになる。
 同家は富山藩の十村役を代々務めた。文書は富山藩農政研究に資するところ大きいらしく15代当主の逸峰の手になる紀行文や20代松世の代の書簡(犬養毅、徳富蘇峰、若槻礼次郎、土屋文明などから)は貴重な研究資料だそうだ。
 書籍は弘正氏の個人蔵書のほか、歴代が収集した漢詩集や漢籍類、歌集や短歌雑誌など。目録「内山文書・文庫目録」あり

 

 

 

★ 兵庫 園田家 SONODA
 丹波篠山の園田家は丹波多紀郡追入村から宮村に入って以後11代を数える。同地の大庄屋を歴任した。
 目録によれば同家の文書は、①大庄屋としての公務にかかわる文書、②農業経営にかかわる文書、③家のプライヴェートな文書、④明治以後の行政文書の四つに大別されるが、蔵書は③の個人的文書のうちに含まれる。数量は和漢の書が208部1548冊である。
 しかし④にも明治以降の図書があるのでこれを加えなければならないが、そこはまだ未整理だという事である。

 

 

 

 第一章の「近世蔵書文化論」であげられていた5家もかなりの素封家だったが、こちらはメガ級地主であり所蔵数も一桁上がっている(ただ本篇の江戸の大蔵書家たちに較べるとまだ一桁少ない)。
 とにかくこれらは今わかってる分を書き出してみただけなので、この箇所は後でかなり増補することになるかもしれない。
 本間家や田部家はともかくとして、日本第二位の宮城の斎藤家などは江戸期からの文書・書籍・雑誌・新聞などの総計が100万点を超えるとも言われており、このサイトで対象とする書籍・雑誌がどのぐらいになるのかは要注目である。茨木の坂野家の文書目録も400ページを越える量だし、大阪の向井家も所蔵文書は二〇五五点ほど残っている。

 農村の蔵書の「質」については今までほとんど触れなかった。ここで反町茂雄がかつて語っていた内容を思い起こしてみよう。
 上に見たように新潟にはかつて規模の大きな地主が大勢いた。最大規模の千町歩地主になると半数以上が越後の地主だった。江戸時代最も人口の多かったのもまた越後の国である。米所という事もあろうが、当時の日本経済、特に海運関係は日本海側に比重があった事情もこれに与かっていたに相違ない。
 そうした豊かな財力から、二章で触れた桂家のように全国的な名声を持つ蔵書家も生まれる事となったわけである。
 ところが実際に桂家の売り立て会に参加した反町茂雄の語るところによると、その質は必ずしも高くはなかったらしい。「内容は百科にわたった教養文庫的なもの」「古いものや珍希なものは極く少ない」という評価で、和本はあまり買わなかったとのことである。(ただ同家が親交のあった鈴木重胤の「日本書紀伝」稿本五十五冊はさすがに貴珍としていた)
 桂家の蒐集は地主の中でも特別である。単に大庄屋が財力で本を集めたという様なものではなく、当主は江戸や伊勢の学者と交流もあり、自ら著述活動も行った。それですらこうなのである。

「その後、いくつもの経験によって知り得た事は、新潟県の地主さんの蒐集には、この様な通俗的・常識本位の性格のものが多く、この点、関西方面の、大和・河内や伊勢路の旧家のものの文芸趣味・専門的のと、著しい対照を見せて居ります。」(反町茂雄「古書肆の思い出1」)

 畿内の蔵書家の趣味の洗練は千年以上の歴史の賜物であり、日本を代表する珍本商の目でいきなりそこと比較されるのもどうかと思うが、ただ、こうした地方の大地主の集書は主に規範的な知識を得るところまでの段階で、それ以上奥へ進むという面では江戸・上方に譲るところがあった事は、べつだん反町の指摘を待たずとも普通に了解しうる。(酒田の本間家の様に大名蔵書のカテゴリーで捉えた方がよいものは勿論この例に入らない)
 ところで、その反町さん本人も新潟出身なのである。
 反町茂雄に限らず、明治以後の古書業界や出版界にはなぜか新潟出身者が多い。これはたしか脇村義太郎も強調していた。本篇の「 明治大正期の蔵書家 」で紹介した市島春城は卓越した鑑識眼とコレクションを誇りこの時期を代表する大物蔵書家の一人だが、彼は新潟最大の地主の市島家出身である。

 

 

 

 

 

【第五章 Miura Baien】
 これまでは江戸・上方の、あるいは武家・学者の蒐集を「どの程度追っているか」で、農村の、あるいは農家の蔵書をみてきた。
 ただ、江戸時代の農村社会の知的水準に関して、「武士や公家のそれを善く追っている」ではなく「独自のものを生み出した」例としては、もう少し別な人物をあげるべきだろう。それで最後に三浦梅園を農村の蔵書家として紹介する事にした。
 梅園を「百姓の蔵書家」のカテゴリーで挙げるのも変な感じだが、彼はわずかな期間儒者に入門したのを除けば生涯のほとんどを生まれた村で過ごしている。かなりの蔵書に囲まれていた事は推定され、そして独自というよりほかない思索活動を行った。
 梅園という人は「医を学び」とはいっても専業の本草学者ではなく主著は明らかに哲学・思想に関する内容である。洋学の知識があって天球儀や顕微鏡も所持していた程だが蘭学者というわけでもない。儒者の門に入った事はあっても勿論儒学者でもない。
 彼はむしろ道家思想や洋学なども含む多様で雑多な読書遍歴から得た知識をもとに多くの著述をなした。同じ様に博識ではあっても「考証」の道へ進んだ国学者とも違い、自然の「条理」を追求し自然学の体系を作ろうとしたところは日本にあっては非常に珍しい。本を一度でも開いてみた人なら分かるだろうが、江戸期の他の著名な思想家からは最も異質なものを書いている。
 農村に暮らしていた梅園の場合、師弟関係からなるアカデミズムから自由であったこと、また豊後が長崎に近く(二度ほど旅行している)洋学の知識も得やすい環境にあったことなど、いくつかの好条件は考えられる。「条理」への志向性も、中国や西欧の思考法からの影響を想定する事は許されるかもしれない。
 しかし江戸・上方に屋代輪池や木村蒹葭堂のような大蔵書家が登場する以前の18世紀の時点で、九州の農村にあって豊饒な知に溢れた思索を展開していた人物がいた事はやはり驚きである。近世農村における知的達成の独自な例は?といえば、管理人などはまず三浦梅園を連想してしまうのである。
 江戸時代の学者・思想家で今現在広く世に知られている人たちのうち、三浦梅園と安藤昌益の二人は思想内容が同時期の儒者・国学者から隔絶していている点で異彩を放っている。ともに農村に生まれ、医を学んで医で身を立て、同時代的な影響は殆ど与えずに、寧ろ明治以降に価値を発見された点でも共通する。
 昌益は八戸という城下町に居を定めてその地で著述を行ったのでこの項では触れない。上に述べたように単に農家の出だという思想家であればいくらでもいるのである。大蔵書家の渋江抽斎も元は農家からの養子だった。

 

 

 

★ 三浦梅園 Miura Baien 1723-1789

 梅園は豊後国 国東郡 富永村の豊かな農家の次男に生まれている。祖父の代より続いた医業を継ぎ、ほぼ終生同村で暮らした。主著は『玄語』『贅語』『敢語』の三部作であり、その他、天文、医学、詩学、経世論など著述内容の範囲が極めて広い。
 三浦梅園記念館に残った2272冊の和漢の書は梅園の蒐集分のみではなく子孫のものも含むが、これまでみてきた農村部における蔵書の水準からすれば相当な量である事はお分かりだと思う。また梅園は自筆稿本も大量に(およそ200冊)残っている。

 

 

 

 

【附章 在村医たち】
 三浦梅園は在村医だった。農村における蔵書家・読書家というと、まず名主の様な村役人及びその周辺が第一に考えられる。次は寺僧である。そして三つめにくるのがこの村医なのである。
 最後にこのタイプとして、河内の田中家と摂津の笹山家をあげておく事にした。ともに一般的な村医の水準から比べるとかなり所蔵数が多い。田中家に関しては、医薬本草書のコーナーに書いたので数量など基本事項は そちら を参照のこと。ただ、あちらでは少し簡単に書きすぎたので、ここでいくつか付け加えておく。

 

 

★  河内国 八尾東郷村 田中家
 田中家は18世紀に農業から医業への転換を成し遂げている。医は京都の伊良子家に学んだらしい。大坂の人なので、当地の蔵書家ネットワークの中心にあった木村蒹葭堂などとも交流した。
 そもそも本草書コレクターは江戸期の蔵書家の中で最も濃い人たちなので、そのコーナーでカテを作るほどの蔵書家だけに、単に数量だけとっても一般的な村医の所蔵規模からは隔絶している。
 ここの蒐集の最大の「目玉」も安土桃山時代からの保存状態の良い明版医書である。江戸時代の増加分は、当時の当主が木村蒹葭堂との交流に触発されて集めたものらしい。

 

Ⅱ 摂津国 尼崎藩領 南野村 笹山家
 目録には162部950冊が残る。全体の四割が仕事に関わる医書・本草書である。しかし他は漢籍から実用書に至るまでバランスに富んでいる。目録に載せられてないものも多かったはずで全体ではおそらく千を超える。
 笹山家も武士に出自を持つが(江戸時代の第一世代の在村医には牢人など旧武士層が多かった)、二代目以降そのつながりは徐々に消えてゆき、農村の世襲医として続いてゆく。

 

 

 

 

 

 以上、6つのタームに分けて述べたが、いずれも網羅的に調べたわけでもなく、思いつくまま、あるいは目についたものを挙げてみた程度である。この頁は後で増補する余地はいくらでもあるだろう。
 ひとつ感じるのは農村の旧家の場合、家として現在まで継続しているので、蔵書自体が残ってなくても、目録や日記から数量や内容の構成がある程度再現できるということである。
 これが例えば札差の蔵書家になるとそうはいかない。巨富を以て鳴る江戸の蔵前の札差にはかつて守村、赤村、伊勢屋などの大蔵書家がいたが、これらの人については今ではもう何もわからないのである。

 

 

 

 

 

次へ 投稿

前へ 投稿

0 コメント

25 ピンバック

  1. [113] 現代日本の蔵書家11 十五万越えのひとたち – 蔵書家たちの黄昏
  2. [213] イスラムの蔵書家たち 十字軍以降 – 蔵書家たちの黄昏
  3. [10] 鏡像フーガ5 明治大正期の蔵書家 – 蔵書家たちの黄昏
  4. [211] イスラムの蔵書家たち カイロ – 蔵書家たちの黄昏
  5. [212] イスラムの蔵書家たち コルドバ – 蔵書家たちの黄昏
  6. [7] 鏡像フーガ2 蒐集のはじめ – 蔵書家たちの黄昏
  7. [9] 鏡像フーガ4 江戸の蔵書家  蔵書家たちが交流をはじめる – 蔵書家たちの黄昏
  8. [208]中世の蔵書家たち 13,14c – 蔵書家たちの黄昏
  9. [8] 鏡像フーガ3 大名たち – 蔵書家たちの黄昏
  10. [12] 鏡像フーガ7 岩崎2家の問題 財閥が蒐集家を蒐集する – 蔵書家たちの黄昏
  11. [103] 現代日本の蔵書家たち1 一万クラスのひとたち – 蔵書家たちの黄昏
  12. [11] 鏡像フーガ6 外人たち – 蔵書家たちの黄昏
  13. Bibliophile Interview  Gabriel Naudé 前編 – 蔵書家たちの黄昏
  14. [204] 古代の蔵書家 ローマ – 蔵書家たちの黄昏
  15. [115] 現代日本の蔵書家∞ エピローグ – 蔵書家たちの黄昏
  16. [202] 古代の蔵書家 ギリシア – 蔵書家たちの黄昏
  17. [203] 古代の蔵書家 ヘレニズム – 蔵書家たちの黄昏
  18. [209] イスラムの蔵書家たち 前史ペルシア – 蔵書家たちの黄昏
  19. [210] イスラムの蔵書家たち バグダッド – 蔵書家たちの黄昏
  20. [206] 中世の蔵書家たち 9, 10c – 蔵書家たちの黄昏
  21. Grolier, De Thou, Mazarin, Colbert – 蔵書家たちの黄昏
  22. [207]中世の蔵書家たち 11 12c – 蔵書家たちの黄昏
  23. [104] 現代日本の蔵書家たち2 二万クラスのひとたち – 蔵書家たちの黄昏
  24. [118] 現代欧米の蔵書家たち 10000クラスのひとたち – 蔵書家たちの黄昏
  25. 総目次 4/15更新 – 蔵書家たちの黄昏

返信する

© 2021 蔵書家たちの黄昏

テーマの著者 Anders Norén

Translate »